省察研究その22「無意識ではダメだ」
【担任の省察】
1つ思い出したエピソードがある。
Hさんが1学期の終業式当日に、体育館入口から廊下に向かってバスケットボールをパスし、蛍光灯を割った事案があった。
その時、Hさんは目に見えてへこんでいた。その日に書いた1学期の振り返りの作文でも、「終業式に蛍光灯を割ってしまって、本当にごめんなさい。よりにもよって終業式に、先生本当にごめんなさい。」と書いてあった。
その時Hさんにかけた言葉が「勉強になったな」だった。
蛍光灯を割ったことを知った時、頭の中に様々な思いや言葉が浮かんだけれど、Hさんを見ていたら、指導・叱責はする気にならなかったことをよく覚えている。ただ、伝えたかった言葉が「勉強になったな」だった。
「勉強」という言葉を無意識に使っていた。ここで言った「勉強」は、ここまで書いてきた「学び」と同じ意味で使っていたんだと今思う。
蛍光灯を割り、落ち込むHさんに「学び」を見たのだと思う。Hさんはあの時、何に出会っていたのだろう。割れた蛍光灯という「物」、割ったことで訪れた事実確認のための聴取という「事」、近くにいて破片をかぶりそうになった友だち「人」かなぁ、割ったという事実を聞いた時の担任の顔かもしれないなぁ。
バスケットボールを廊下で投げてはいけない、なんて当たり前のことを学んだわけじゃないと思う。もっと何か本質に迫る苦い、Hさんだけの個別の学びがあったはずだ。それを当時の私は肌感覚で感じ取ったんだと思う。
自分のことながら、よくやったと思う。しかし、無意識じゃきっとダメだ。教師という仕事に就いている以上は、意識してできないとダメなんだ。
友だちなら、家族ならきっと本能で声をかけてもいい。でも、教師は本能だけじゃダメなんだ。友だちにも、家族にも手の届かないところに手を差し伸べて、学びを手離さない。今は教師という仕事を、そんなイメージで持っている。