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省察研究その21「できない難しいも学び」


【出来事】


 国語の時間で、「みんなで楽しく過ごすために」という単元。

1年生との交流をするために、班ごとに目的・条件を決め、1人ひとりが主張(遊び)・理由・根拠を持って班での話し合いに臨む。また、班の中で司会・記録・タイムキーパーを決め、それぞれが話し合いでの役割がある。


また、よりよい話し合いにするために、事前に教科書に載っているお手本の話し合いの様子を聞き、話し方や呼び方について確認した。

今回は話し合い2回目で、前回出されたそれぞれの主張に対して、問題点・改善点を考え、仮の結論を決める日だった。
 

話し合い中、Hさんが司会に「ダメです」「時間です」「今はHさんじゃありません」と何度も注意をされていた。指名されていないのに、話し始めたようだ。また、話し合いの最中に友だちの筆箱をいじり、シャーペンを取り出していた。それもまた、注意されていた。
 話し合いの後にノートに書いた感想には、「いつもとはちがう苗字やさん呼びがむずかった」と書いてあった。


【担任の省察】


 国語の話し合いの単元ということもあり、司会役がいて、時間に限りもあり、結論を出すという点が普段やっている話し合いとは違った。また、事前にお手本の話し合いを聞いた結果、友だちの呼び方も意識して変えた話し合いとなった。

 言いたいことを言いたいタイミングで言って注意されるHさん。その結果、友だちの筆箱やシャーペンをいじり始めて、また注意される。Hさんにとっては、いつもと違う環境にストレスが多かっただろうな。きっと感想に書いてある以上の難しさを感じたんじゃないかな。HさんがHさんらしくいられなかった時間だったかもしれない。

 でも、それでよかったと思う。Hさんは今回親しい友だちとの話し合いの中で、いつもと違う友だちと出会った。いつもなら、聞いてくれる話を聞いてもらえない。話し合いの流れや方法自体は、事前の確認の場面でわかっていたはず。それでも、実際に始まってみて、いつもと違う友だちの対応に困っただろうな。


結果、すねたんだろうな。出会い直しを学びと価値づけている。その上で話を進めると、Hさんには確かな学びがあったと言える。

 今書いていて気が付いたが、自分にとっての「学び」のイメージってプラスのものだけだったかもしれない。何かができるようになる、わかるようになる、話せるようになる。そんな前向きなものばかりを学びと認識してきた気がする。しかし、今回のHさんの姿だって学びだと思う。いつもと違う友だちに出会ったことで、Hさんの中には新たな思いが生まれたはずだ。それがたとえ「難しい」という前向きとは言えない思いでも。その思いが学びだと思う。


でも、Hさんに学びの自覚はないだろう。むしろ、「学んだ」という思いとは真逆の思いを抱いているかもしれない。ここが教師の出番なのかな。そもそも「できた」「わかった」という思いが生み出す学びは、子ども自身で自覚できる。改めて、教師がそこに学びを見つけ価値づける必要はないのかもしれない。


一方で、今回のHさんのように、「できた」「わかった」の世界じゃないところの学びに出会った時、それも学びなんだと伝える、何を学んだのか伝えることが教師として求められていることではないかと今思う。

I先生と話したことで、職業としての教師、プロとしての教師ってなんだろう、ただの大人と何が違うのだろう、という悩みが生まれた。まだ、自分の中ではっきりとした答えは出ていないけれど、学びを見落とさず、見出すことが教師だからできることの1つだと思った。

では、具体的には何をすることなのか。声掛けか?「できない」「難しい」と悩む子どもにどんな声掛けをすることで、「学び」を感じることができるのだろう?本当に教師の言葉にそれだけのチカラがあるのだろうか。

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