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「みんな、生きづらさを抱える人々」でいいじゃん。


#創作大賞2022

⑴おいそれと
「私が引きこもりです」と言えるのか?

我が家は、とうとう20年以上乗っていた車がとうとう寿命を迎え廃車をした。そのため、正月明け早々に健康診断があり久々に電車で病院へ行った。その帰りに駅の一角に行政や市民団体等が行っている催しのパンフレットが目に入った。

それは、「引きこもり」サポートの講演会のチラシであった。

「引きこもり」はメディアなどでよく使われている言葉だが
私はこれに違和感を感じた。

どうやら、HSP体質の受診電波が

「びびびっ」と

受信されてしまったっみたいだ。

今は亡き某コメディアンではないが

「はい、私が変なおじさんです」

と言うように

おいそれと

「はい、私が引きこもりです」と

一体誰が出てこられるとでもいうのだろうか?

そもそも

こんなに簡単に開き直れるのならば

引きこもりじゃないじゃん…

現に、このパンフレットだって
駅の棚に残っているぐらいだから


「かゆいところに手が届いていないのではないのか?」

という本質的な事に気が付いてしまった。

⑵脱ひきこもりの手段はいくらでもある
~ただその手段に出会う環境も必要~


今はネットやSNSを経由して仲間を作ることもできるし
少なくても
例え学校に行かなくても
会社に頼るという手段をとらなくても
外界とつながる手段はある。

現に、私を含めて

誰にも


「世間的にはこうだけれども、本当のところはどうなのか?」

声に出したいけど出しにくい

それでも、分かってもらえる誰かを探している人が

どこかに存在している。

この事を知る機会を「note」で得られた。

これもある意味

コロナでに日本の全国民が巣ごもり状態になったからこそ得られた

『棚ぼた』だ。

余談だが、私自身は社会人になって学び直しのため大学へ行った。
そのため、当然のように卒業したらどこかに勤める

いわゆる

「勤め人」

ということが


「普通」

と感じていたし
周りもそのような人が多かった。

だが、大学の仲間や先生を通じて
自身の信念や価値観に沿って
フリーランスとして
生き生きとお仕事をされている方々と出会った。

お陰様で
今までに見えてこなかった
自分の中に頃固まった「固定概念」

「崩してもいいんだ」

という安堵感とローモデルに出会うことができた事に感謝する。

それと同時に

何となく自分自身が抱いていた
「もやもやしていた生きづらさに対する葛藤」

減らす突破口が発見できたことは私の中で大いに有意義なことであった。

学校を卒業した時点でお互いの生活環境も生活スタイルも変化する。

そのため

いつのまにか関係性は

自然消滅していく

これがお約束パターンではないだろうか?

だがコロナ過まっただ中に大学を卒業しても、なをつながりを持てる友達にも恵まれ、お互いに誰かとつながるという意味で引きこもりによる孤独から逃れ生きていられる状況にも感謝です。

⑶ある時は、サポーター
またある時は生きづらさを持つ当事者

私自身子どもの頃から抱えていた悩みがありました。

子どもの頃に病気で入院した経験があります。
あと一歩遅かったら「失明」するスレスレな状況でした。

何をするにも、モノが見えにくいハンデがありました。

人は生きていくために
何をするにも「見る」→見た状況を脳で「認識」→自分がどうしたいか・どうすればよいのか?意思や感情が生まれる。→「行動」に起こすというプロセスをたどります。

今考えれば、自分が人よりも鈍いのはこの部分に課題があったからです。

病気を発症した9歳の時は

そこまでの心の余裕

時間的余裕

そこまでの知識は

全くなく

ただ ただ 
毎日が色んな意味でサバイバルでした。

机に向かって勉強してようものならば
眼圧がぶっ飛ぶほど上昇。
頭が超絶痛い。
吐き気が止まらない。

それでも明日はやって来て
体調が悪くてできなかった宿題を
どうにかこうにか朝起きて片付け
学校に行き…というのがルーティンでした。

始めて病気になり退院した当時の担任の先生に
親が何度も今でいう合理的配慮を求めたが
全く理解がない先生でした。

その証拠に
平気で体育の授業でも

俺の授業で汗をかかないやつはダメなやつだ

と言ってしまう程であった。

さらに

何の科学的な根拠もない
担任教師の独断と偏見の謎の汗かき量のルール
があり

それからはずれると

嫌味の攻撃をあびさせられるという始末であった。

きっと、今ならばツイッターなどで

「おいおい、そもそも人の体温はみんなそれぞれ個人差があるんだからそれっておかしくないか?」

「いやがらせにもほどがある」

「これって、単なる根性論じゃん」と


大炎上間違いなしぐらいのレベルでした。

早い話が

毎日が生き地獄でした。

ある意味1980年代前半の時代は今とは違い
フリースクールなんてものはない時代だし

ネットもスマホもまだない時代でした。

だから、子どもが自分以外の社会とつながる手段はほぼ皆無でしたし

「学校は行くべき場所」という風潮が強かった。

よって
「行くべき場所に行かないものならば」

「逃げ」とみなされ
アウトロー扱いされるご時世でもありました。

だからとりあえず、

「今日一日を無事に生きてしのごう」

を続けるだけであった。

当然ながらそんな環境では、勉強はできず成績は二の次でした。

そんなトラウマも重なり


ついには

弱冠、小学3年生ながらも

「なんで、自分は生きているのだろう…」

という所まで追い詰められた。

子どもにとって学校は一日の大半をすごさざるを得ない場所です
よって、毎日理解のない担任教師とその影響を受けるクラスメイトの中にいる状況は

「針のむしろ」

でした。


そのため

学校に行くのすら放棄したくなることも少なくありませんでした。

ある意味、学校を行かないという選択をできる子がうらやましかったし

子どもながらにも

引きこもりになるにも、不登校を選択するにも

精神的に、それなりのエネルギーがいることということを感じていました。

今に思えば、不登校・引きこもり予備軍でもありました。

大人になり、小学生の頃に抱えた謎をとくため大学で学び直しのため精神保健系列や心理学に出会うわけですが、やっと出てきた回答はこれでした。

「私自身がHSP傾向があり、生きにくさを持つ当事者でもあること」

今さらながらですがそれに気がつきました。

今まで抱えていた

「もやもや感」

一筋縄ではいかないとう事が

自分自身の中で少なくとも
子どもの頃よりかはスッキリし
対処法を模索しながらも

日々過ごしています。

⑷病気じゃないんだ…

HSPはそもそも

「病気ではありません」

「生まれ持って備わった、脳の気質」です。

「気質」とは

『感情や行動、刺激などに反応する生まれ持った心のパターン』と言われています。
・『敏感すぎていきづらい人の明日からラクになれる本』
長沼 睦夫 著 永岡 書店 P20 

つまり

「育った環境でもなく教育でもない」

ということが言えます。

これは最大ポイントです。

なぜ最大ポイントなのかというと

今まではよく教育現場などでは

「あの人の育った環境が〇〇だからあの人は✖✖なのよ」

という「環境論」による偏見だったり

「気合が足りないからあの人は〇〇なんだ」

という「精神論」でで片付けられがちで

医学や情報社会が発展してきた今でさえも
「自己責任論」の押し付けが横行しているのも現実だからです。


ある意味、大学での学び直しをしたことで

今さらながら
大人になり
これらの

『呪縛からの解放』が

得られという意味で私にとっては有意義なことだからでもあります。

⑸そもそも日本は多少のハンデがある方がスルーされる。

現在の精神医療の検査では

脳のどこの部分にハンデとなるものがあるのかというレベルまで可視化できるほど科学技術の変化が発展しています。

実際に、私が営業に行った先で精神医療機関に関わる医師の中には障害者就労のサポートの対象かどうか知るために今は画像診断を希望する患者さんが増えてきている傾向があると伺っています。

もちろん、診断が下れば公的サポートが受けられます。

しかし

むしろ問題はこちらだと思います。

それは

診断がくだされない

知的障がい者(児)や発達障がい者(児)のボーダーライン

であったり

HSP

その他として

障がいの症状が安定しない難病だけど
障害者手帳がもらえない方々のようになると
公的サポートの枠からは外れます。

つまり、この状態が

日本の社会福祉制度の落とし穴です。

さらに、私自身も学生時代に更生保護の単位を取得するために、以下の参考文献を拝読させていただく機会がありました。

現在の少年院や刑務所の現場では「累犯障害者」又は「触法精神障害」の実態を知りました。
実際に、私が以前勤務していた精神医療の現場や福祉の現場にも少なからずいました。

また、医療少年院にて児童精神科医として臨床現場で勤務されていた
宮口 幸治氏の『ケーキの切れない非行少年』でも
山本譲司氏の『刑務所しか居場所がない人たち:学校では教えてくれない、障害と犯罪の話』のなかでも著書でも共通して記されていることは

実際に刑務所なり、少年院送致なの処遇の場面での精神鑑定で

ようやく

やっと

この場面になり

なぜ犯罪を繰り返してしまうのか?

という根本が判明するということでした。

この事は衝撃的でした。

やはり、このことも現在の見えない子どもの貧困問題に関係します。

よって、そうならないためには

・生活保護の正業扶助のシステムや制度の見直

・幼児教育の現場や特別支援学校での『コグトレ』
(児童精神科医 宮口 幸治医師が開発した学習の基礎となる認知機機能強化トレーニング)の導入

人との関りということで

「アンガーマネージメント」
「アサーティブコミュニケーション」を
学習指導要領の必修カリキュラムとして導入する必要があると考えます。

⑹生活保護の正業扶助はくせもの

生活保護の扶助の1つに
「生業扶助」というサポートがあります。
この扶助は、自立支援(経済的な)として
就職するために必要な資格だったり
技術や知識を身に着けることを意図として利用できます。
つまり、それには

生活保護受給者の働く意欲や能力を最大限に引き出すこと


含まれています。
具体的には
就業することを前提としての
ハローワークで実施している職業訓練の費用や
分かりやすいものでは
高校進学のための費用等です。

この、正業扶助って私は結構くせものだと思うんです。

そもそも、現在使われている生活保護法が施行されたのは

戦後昭和25年です。

しかし、現在は戦後直前の社会情勢とは違い

多様性社会のはずの「令和」です。

だとしたら

「世の中だってその頃とはだいぶ違う」

と言いたいわけです。

確かに、フリーランスとなると
労働基準法などの保護は受けにくいというリスクがあります。
だから、そういう点では生活保護ワーカーはフリーランスでの生業は認めにくい部分はあります。
仮に、生活保護受給者がフリーランスとして働くとします。
しかし、万が一事業に失敗した時の金銭リスクはどこが最終手段として責任を問われるのかとなります。

つまり、人様の血税や国費として保護受給者が抱えた債務を背負うとなれば
それはそれで、世間的からの批判のリスクも大きいです。

そのため
行政の指導では、どこかの企業に雇われる働き方を推進します。
もちろん、企業に雇用されればフリーランスよりかは将来は厚生年金の対象となる訳ですし安定して継続雇用の可能性は高くなります。

とはいうものの、実際の生活保護受給者の間のニーズとの乖離がでてきているとも感じます。

実際に、私が障害者就労のサポートをしていた事業所にも似たようなケースの相談がよくありました。

例えばそれは
アフィリエイトなどのフリーランスで働き、一定所得がある方でした。

中には、一般のサラリーマンがもらうお給料以上に稼ぎがあり


商才もあり

「これだけ稼いでいるならば、むしろこちらがそのノウハウを教えていただきたい」(立場上、口に出して言えませんでしたが…)

「この人にはこの人材をうまくマネジメントする上司なりなぜいなかったのか?」

「がんばって、無理することないじゃん これだけ稼げて経済的に自立できているのになぜ今さら…」

そう思わずにはいられない方も正直全くゼロではありませんでした。

よくよく話を伺うと

やはり

世間体だったり、1人で仕事をすることに限界を感じたり、フリーランス独自の孤独感であったりということをお見受けしました。

ある意味、私も改めて仕事をする意味(価値観)の多様性を改めて感じさせられました。

しかし、障害者就労支援サービスを受ける場合は

原則的に仕事をしていないことが前提です。

なぜなら、理由は

障害者就労支援の費用は生活保護のシステム同様で
国や自治体・国民の税金で賄われているからです。

つまり、働くことができる人に費用を出す必要性はないとされます。

国にはもっと障害が重度で全く就労できない人がいるのに…

という理論だからです。

確かに、おっしゃることはごもっともです。
しかし、やはりここでも

そうは言うものの、時代は変化してきているのだからこの課題に対しても新しい働い方に伴った法制度改正が必要だと私は思います。

何なら、もう
みんないつかは誰もが高齢になり
生活面や肉体面・精神面で何らかのハンデが出てきて
福祉制度を受けるのだから

介護保険でいうケアマネージャーなり、障害者総合支援法の相談支援専門員(障害者福祉のケアマネージャー)、福祉事務所のソーシャルワーカー等が
キーパーソンとなり

『ごちゃまぜ福祉を展開するのでいいんじゃない?』

と思います。

ちなみに、私が小学校1年生に入学したにクラスに心臓疾患を持ったクラスメイトがいました。一緒に机を並べて遊んだり・学んだり・放課後にお互いの家に遊びに行き来して、何か困りごとがあるとにその場でパパっと解決できる環境が整っていたり、家族ぐるみのお付き合いも盛んな地域でした。なんだか、子どもながらにも居心地の良さを感じていました。

実際に、国や自治体の政策としても現在は

『地域共生社会』が謳われていています。
そのため、福祉施設も障害・児童・高齢者等という垣根を取っ払った福祉事業所が徐々にできてきている傾向が見られます。

実際に、障がい者からすると

子どもの頃は普通学級で定型発達の児童と一緒に学ぶには限界があるから、ご本人の意思に反して特別支援学級を勧めらたり

大人になったらなったで、
やっぱりこれからは地域共生社会なので社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)ということで定型発達の者もハンデキャップがあるものもまた地域で一緒に過ごす社会というのは

「ちょっと、国は調子よすぎじゃないですか?」

というご意見もあります。
確かに、子どもの頃から散々定型発達の部類とそうでない人というくくりで分断された社会で過ごさた歴史が長い方はそう思うかもしれません。

やはりそれには、そうなった以上に時間をかけて関係性をつくるにつきないと私は思います。

⑹「そもそも、みんなが今コロナの影響を受けているのに…」

生活保護受給者であろがなかろうが
実際に私の周囲でも

子育て中

親の介護

又は

その両方であるダブルケア等

何らかの諸事情で、一般就労体系が合わないため

やむを得ずフリーランスに転身という者が増えてきている。

つまり、そのこと自体が

「誰にとっても」

「今のご時世に合わない、就業システム」
ということを象徴しているのではないだろうか。

そう考えると、誰でもフリーランスという雇用形態の手段の1つとして精神的にも、経済的にも安心して働くことができるように国や自治体はベンチャー企業・NPO法人などに補助金を出してビギナーでも起業ができる講座の開校・継続して安定した経営サポートができる支援制度が必要であると考えます。

起業講座と言うと

どこかお金持ちで元々家の稼業を継いでいる人とか

大学で経営を学んでいたり
一流大学卒だったり

高額納税者で一流セレブの人が通うような
費用も敷居も高いイメージがあったりします。

実際に、私も含め

「お金も・コネもないけれど起業をしたいと希望する人」

の中にはこう感じる人もいる。

そのため、一般の人たちには敷居が高いと考える。

そこで提案です。

例えばメルカリが地域のドラックストアーの一角でビギナーのためのメルカリの使い方講座の開催

だったり

スマホの会社が地域の店舗でスマホ教室を開催していることがある。

そのノリで

気軽に、お茶を飲みながら公民館などで参加できる「企業カフェ」なんて言うのはどうでしょうか。
(もちろん、コロナが収束した矢先のことですが)

また、経営にあたり事務処理や財務処理・労務管理がネックで二の足を踏んでいるという声はあちことでよく聞きます。
私自身もその手の業務が苦手ですし、定年退職をしてまだまだ元気で何か社会貢献のための企業をしたいという希望者は少なくない。

できることならば、それらのものはリーズナブルな料金設定で丸ごとアウトソーシングしたいものだし

例えば、個人経営者が何人かがグループを組んでグループ割引やどこかで出張講習サービスをしていただけると嬉しいものです。

さらに、パソコン苦手世代はクラウドアウトソーシングなどと言われても

そもそもが横文字だって

パソコンだって苦手な訳で

それが最大のネックでもある。

そのあたりを、手取り足取り教えて頂けて

スマホのギガ定額料金パックではないが

「月に何回質問しても○○円安心サポートパック」

みたいなサポートサービスがあるとありがたいです。

もしかしたら、私がその手の情報に疎いだけで既にあるのかもしれませんが

国や自治体が

個人事業者ビギナーのための全面バックアップ体制とし

個人事業の経営者と業務をサポートするための法人をマッチングさせるための事業もあるとよいのではないでしょうか。

そうすることで、労働者が増え納税者も増やすことができる。
国にとっても国民にとってもお互い
「win win」な関係になると考えます。

⑺「あちら側」と「こちら側」の分断

障がいの有無を関係なくして
今 全国民が
多かれ少なかれ
コロナで何らかの生活機能に支障をきたす時代でもあります。

そういう意味では

全国民が「生きづらさ」を抱えている当事者でもあり
様々な生活環境の課題に埋もれて生きています。
にっちもさっちもいかないことの方が
多いのではないでしょうか。
そんな、心の悲鳴を

皆が吐き出せる環境が必要だろうし
もう少し寛容な社会になってほしい気持ちでいっぱいです。

私自身もサポート業務をしていて
時には助けてもらう事も実のところは多いです。

例えば、私がフロアで事務処理が苦手でパソコン操作に苦戦していると
元エンジニアのお仕事をしていた利用者さんが得意を活かして教えてくださることもありましたし

統計学が得意な利用者さんが数字が苦手なスタッフに学会発表用のデータ収集等の方法をレクチャーしている場面などを時々見かけたりすることがありました。

そうやって考えると

「持ちつ持たれつの関係性」であり

「支援をする側」と「される側」

「あちら側」と「こちら側」

と区別する必要はどこにあるのでしょうか?

少なくともそう考えたら

「引きこもり」

というネーミングは

「あちら側」「こちら側」
「支援される者」と「する者」を分断

下手をすると
どこか「パターナリズム化」しやすく
「人々の生きづらさを生み出す」
「環境要因」の1つであると感じます。

私を含めて、特に医療や福祉・教育・行政に携わる者はそのことを
自覚する

「自己覚知」
必要だと考えます。

もはや、そうなったら

「引きこもり」というワードは

シンプルに

「生きづらさを持つ人」

でいいと思います。
そう思うのは私だけでしょうか?

【参考文献】

・『「気が付きすぎて疲れる」が驚くほどなくなる「繊細さん」の本』
内田 友紀 著 明日香出版 2018年

・『敏感すぎていきづらい人の明日からラクになれる本』
長沼 睦夫 著 永岡 書店 2017年

・『全部わかる脳の事典』
監修 酒井 建雄 久光 正 成美堂出版 2011年

・『新・社会福祉士講座16低所得者に対する支援と生活保護制度 第4版』
社会福祉士養成講座編集委員会 中央法規出版 2016年

・『身近な人が障害をもったときの手続きのすべて
監修 鈴木 四季 自由国民社 2018年

・『刑務所しか居場所がない人たち 学校では教えてくれない障害と犯罪の話』
山本 譲司 著 大月書店 2018年

・『ケーキの切れない非行少年たち』
宮口 幸治 著 新潮社新書 2019

・『新・社会福祉士講座11 福祉サービスの組織と運営 第5版』
社会福祉士養成講座編集委員会 中央法規出版 2017年

・『ソーシャルイノベーション 社会福祉法人佛子園が「ごちゃまぜ」で挑む地方創生!』
 監修 雄谷 良成 編集 竹本 鉄雄 ダイヤモンド社 2018年

・『ひきこもり×在宅×IT=可能性無限大!株式会社ウチらめっちゃ細かいんで』
佐藤 啓 著 あさひ出版 2020年















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