出会うことのなかった日々たちに
今日は久しぶりに映画に行った。
コンディションを整えて、ひとりで真摯に向き合うべき映画然としてる映画を久しぶりに観に行った。
厳しい、けれどありふれた貧困によって、幸せだったはずの家族の歯車が狂い徐々に離ればなれになってしまう物語だ。出口のないトンネルのように、薄暗い無機質な景色が延々と続いていく予感が、観客の心を苦しくさせる。抜け出せないつらく厳しい環境は変わらないまま、むしろ少し悪化して物語は幕を閉じる。白けるような嘘くさい希望を提示するでもなく、苦難を美談として描き感動を誘うわけでなく、やり場のない絶望が、現実にあるがまま描かれていた。
どうしたら良いのだろうか、どうしようもないけれど。救いなどないのだろうか。
そんな感情を引きずったまま、僕は外に出た。土曜日の新宿の街は相変わらず賑やかで、今のこの気持ちを連れては、新宿のどこに行っても馴染めるような気がしなかったので、ひとまず最寄りまでの電車に乗った。こんな日はどんな場所で時間を過ごすのが良いだろうかと思案を巡らせた。馴染みのない場所によそよそしさを感じてしまう自分を含めた誰にも、邪魔をされずにゆったりと思う存分映画の余韻に浸れる場所。
ああ、あそこだ。と思いついた。
僕の住んでいるマンションの裏にある、小さな喫茶店。なんでも自家製のカレーが有名らしく、落ち着いた雰囲気であるらしかった。前を通るたび、中を覗いてみようと思うも、なかなか気持ちとタイミングが合わず、結局一度も行けずにいた。昼間の僕は小心者だから、新しくお店に足を踏み入れるとなると相当な勇気がいる。こういう場所は特別な誰かと一緒に来よう、とそう心に決めて、あまり近寄らないようにしていた喫茶店だった。きっといつかこういう場所に一緒に行きたいと思う人が、僕にとっても大切な人になるのだと、半分願掛けのように思いながら。
何気なく、お店を検索してみる。
嫌な予感がした。
そのお店は1ヶ月より少し前、閉店していた。検索欄には、店名の隣に「閉店」という検索予測が出ていた。どうやらマスターが長年の闘病生活の末、つい先日この世を去ったようだった。調べていくと、訪れたことのない僕が妙に親近感を感じていた場所は、多くの人にとって安らぎの場所だったらしい。閉店を残念に思う誰かのブログは、僕のもっと早く訪れるべきだったという後悔の念を強くする。勝手ながら、会うことのなかったマスターには、僕の休日を少し鮮やかに変えてもらえたのではないかという気さえしてくる。カウンターに座っていろいろな書籍を眺め、それに気づいたマスターが掛けてくれる言葉一つ一つに、僕はどれほど心を躍らせていることだろう、と。
店の跡地には、冬の晴れた日の光が、寂しげに差していた。
結局僕は、よくひとりで来る近くの餃子屋に来た。僕の他には誰もお客はおらず、店員のやけに元気な挨拶だけが店内に響いた。
僕は昼からハイボールを2杯飲み、餃子をおかわりしてしまった。
出会うことのなかった特別な場所に、送ることのなかった豊かな休日の時間に、せめてもの追悼の意を込めて。