松本窓

誰かのためのものではない、フィクショナルな私小説。

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最近の記事

2023年の終わりにむけて

昨年夏ごろから作品づくりについて迷い、悩むようになった。 それは、ある種の覚悟を伴うようなステージに足を踏み入れたからなのかもしれないし、純粋に、無邪気に、ただ作りたいから作るということを自分に許せなくなったからなのかもしれない。 とにかく、1年以上ずっと悩んでいた。 けれど今年の秋頃、その悩みについに終わりが訪れた。 最終的にたどり着くのはとても個人的な気づきと決意なので、全く興味ない人も多いかもしれないけど、ほかに特段書きたいと思うようなこともないので、今年最後の文

    • NHKドラマ『忘恋剤』の脚本を公開してみる

      もう2023年3月末のことだから、なんだか随分と時間が経ってしまったけれど、僕が書いた脚本がNHKで単発のドラマとして制作されて、放送された。 少しでも、これが良かったのか悪かったのか、どこが良くて、どこがだめだったのかを考えたいし、客観的な意見の前に差し出して、自分が本と向き合う機会を、もう一度得たいと思って『忘恋剤』(尺未調整版)を公開してみる。 ぜひお時間あればご一読いただき、忌憚ないご意見をお寄せくださいませ。 みなまで言うなという感じですが、良識的な範囲でのご

      • 2023年7月23日

        ここに来て、やりたいことが溢れている。 かつて感じたことのある、思わず走り出したくなるような泣きたくなるような、心に留めてはいられない渇望のような情熱のような感情が、再び湧き上がってきている。どうしたらよいのかわからない。吐き出したい、でもそれによって失いたくない。同時に、これまで無駄にした数々の時間が頭をよぎり、後悔に食い尽くされそうになる。それでも湧き上がる情熱で、胸が満ちる。なにかへの憧れ、負けたくないという気持ち、今までなにしてたんだという後悔、今から始めなきゃという

        • ご飯を炊いたら、おにぎりを握ろう

          よくよく考えると、僕は素手でちゃんとおにぎりを握ったことがないのではないか。 小学生の時に母の真似をして握ったような、うっすらとした記憶はあるが、きちんとした形状のおにぎりを握るスキルが自分にあるという認識はない。つまりは、おそらく握れないのだった。 しかしそれは当たり前のことかもしれない。僕にとっておにぎりとは、他人のために握られるものな気がするからだ。僕がわざわざ自分の手を汚して、自分のためにおにぎりを握るわけがなかった。ラップでご飯を丸く包んだ、およそおにぎりとは呼べ

          2022年の終わりにむけて

          以前、「2021年の終わりにむけて」という文章を書いてから一年が経ったということが本当に信じられない。 それはきっと、1年という期間がもたらしうる変化と、実際に自身の進歩とか成長を比較した時、あまりに乖離があると感じるからだ。つまりそれは、僕が自身の成長や変化に納得できていないということだ。ずっとこんなことばかり言っているが、確かな前進を実感できないまま、時間だけが過ぎていくような、そんな日々を送っている。 9月に「夏。悩み、考えたことについて」を書いて、悩みは一旦の収束

          2022年の終わりにむけて

          夏。悩み、考えたことについて

          はじめに。 これは自分の創作についての文章であるが、創作についての主張ではない。「クリエイターはかくあるべき」という強く外に表現されるものではなく、自分の心の中に湧いては消えていく思考をなんとか捉え、悩みの正体に向かい合い、文章というものに残すことでこの先しばらくは同じことに悩まされないようにしようという試みの趣旨で書かれるものだ。 だからこの文章は極めて個人的なものになる。超どうでも良い人もたくさんいると思う。というかほとんどの人にとってどうでも良いと思う。この先の未来

          夏。悩み、考えたことについて

          2021年の終わりにむけて

          よく聞かれる。「仕事忙しいの?」と。 仕事はそれほど忙しくない。忙しくならないよう、周囲の人々が配慮してくれているからだ。本当にありがたい話である。 「じゃあなにが忙しいの?」と尋ねられるといつも答え方に困る。僕がやっているのは、所謂、”仕事”ではない。収益の発生が確約されていれば、仕事と言うこともできようが、今取り組んでいるものは必ずしもそれには該当しないものであるだろう。かといって、趣味かと言えばそれも違うような気がする。楽しみながらやっているけれど、自由気ままに、自分

          2021年の終わりにむけて

          フルリモート映画をつくってみて

          世界が急変して、しばらくが経った。なんだか糸がぷつんと切れたように、元の生活に一斉に戻りつつある。 なにが必要でなにが不要かの選別や、それに伴う闘争は明確な収束を迎えないまま、何事もなかったかのように世界は形を変えていく様子に違和感さえ覚える。 結局、いつまでも閉じこもっているわけにはいかない。そうやって僕たちは、新たな生き抜き方を探りながら日常を再形成していくのだろう。 2020年5月 僕は誰とも会わずにリモートで映画を撮った。 ひと月で企画から編集までを行い、5/31に

          フルリモート映画をつくってみて

          どこへも行けない僕たちへ(リモート映画作品キャスト募集)

          今日も陽が沈む。総武線がゆっくりと通る音、閉じられた釣り堀で喘ぐ鯉たち、風に揺れる木々。 斜陽に照らされ、木々の影がアスファルトの上に長く伸びている。 水面に反射した光が僕の網膜に届く。 ああ、なんてうつくしいのだろう。ずっと見ていたい。そう願っている。 まるで何も起きてないかのように、世界は変わらず美しくあり続けている。 ここ最近の日々は、一人旅に似ている。あのどこまで遠くへ行っても、自分を動かすのは自分なのだと痛感する瞬間の連続。決して僕以外の何も、僕をどこへも連れて行

          どこへも行けない僕たちへ(リモート映画作品キャスト募集)

          彼女について①

          愛とはなんであろうか。ここ数年、そんな問題にぶつかることが度々ある。 それを探るために誰かと色々な愛の話をしたいのだけど、どうにもむず痒い。そこで考えた。 気恥ずかしくて、恋人にすら滅多に愛など伝えられないが、宛先のないラブレターでならば愛を語れるかもしれない。 ふと、そう思いなんとなく書き始めてみている。 彼女の話をする。 彼女とは、まだ出会って半年くらいだ。ものを書く人で、彼女の紡ぐ言葉は等身大な誠実さを持っていて、好感が持てる。 人との関わり合いにおいて、年月という

          彼女について①

          彼について①

          愛とはなんであろうか。 ここ数年、そんな問題にぶつかることが度々ある。実際にあった話かはもはや定かではないけれど、夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」とでも訳しておきなさいと生徒に言ったそうではないか。 さて、僕にとって愛の形とはどのようなものだろうか。言葉や行動に現れるものなのだろうか。それを探るために誰かと色々な愛の話をしたいのだけど、どうにもむず痒い。 そこで考えた。 気恥ずかしくて、恋人にすら滅多に愛など伝えられないが、宛先のないラブレターで

          彼について①

          満たされた日々の隙間に

          僕の実家は、田舎とも都会とも言えないような地味な首都圏のはずれの街にあって、僕は市内の普通の公立高校に通っていた。 高校生3年生になって初めて彼女ができた。元気で明るくて、優しくて、ありのままの僕を受け入れてくれて、そしてそれを好きだと言ってくれるような素直な子だった。僕にとってとても大切な存在になった。 その頃は受験期のさなかであったので、毎日一緒に帰り、たまにサイゼリヤなんかに行って、たらこソースシシリー風を食べながら勉強をしたりした。そんな何気ない時間がとても愛おしかっ

          満たされた日々の隙間に

          出会うことのなかった日々たちに

          今日は久しぶりに映画に行った。 コンディションを整えて、ひとりで真摯に向き合うべき映画然としてる映画を久しぶりに観に行った。 厳しい、けれどありふれた貧困によって、幸せだったはずの家族の歯車が狂い徐々に離ればなれになってしまう物語だ。出口のないトンネルのように、薄暗い無機質な景色が延々と続いていく予感が、観客の心を苦しくさせる。抜け出せないつらく厳しい環境は変わらないまま、むしろ少し悪化して物語は幕を閉じる。白けるような嘘くさい希望を提示するでもなく、苦難を美談として描

          出会うことのなかった日々たちに

          雨の日、珈琲屋で

          人々が、持てるものを惜しみなく使うことをある種の幸福の形と捉えているとするなら、平凡な僕の唯一持てる莫大な財産である時間を浪費することは、最上の贅沢なのであろうか。 何も大切なものなど落ちてないSNSを、まるで物乞いのようにうろついている。自己嫌悪や自己否定から逃がしてくれるエピソードを見つけては、その瞬間的忘却に消費されている。 いつもなにかを探している。なにかを見つけ、なにかに見つけられることを常に期待している。自分の存在を少しでも大きくしてくれるものを望んでいる。そう

          雨の日、珈琲屋で

          金木犀の香りに誘われて

          10月の終わりころ、その日は秋晴れだった。前日の雨で湿ったアスファルトには空が反射して、暗いブルーをしていた。 また今日も同じ場所に向かう。8時間前に同じ道を通ったときはあたりは真っ暗だったのに、今はうんざりするくらい世界は明るい。 僕は憂鬱だった。毎日同じことを繰り返して、進んだ実感がないまま日々の速度だけが早まって行く。そのことへの焦りすらなくなった自分に落胆しつつも、具体的にどのようなことをすれば良いのか分からず、そしてそれらに考えを巡らす情熱もいつのまにか失せてし

          金木犀の香りに誘われて

          金木犀の香りに再会して

          10月は、一年を通して春から最も遠い月だ。 私たちは、今後のさまざまな出会いに期待を込めて、春の訪れをしばしば希望と呼んでいる。では、春から最も遠く、今後あらゆるものが失われていく予感がする季節は、失望や絶望の色が濃いと言うことができるだろうか。 この春、初めて実家を出て私は東京で一人暮らしを始めた。大学2年生のときから望んでいた広告系の企業に勤めはじめて、もう半年が経った。あの頃、私はこれから始まる生活に胸を躍らせていた。初めて住む東京には、ちょっと歩けば行ってみたいごは

          金木犀の香りに再会して