フルリモート映画をつくってみて
世界が急変して、しばらくが経った。なんだか糸がぷつんと切れたように、元の生活に一斉に戻りつつある。
なにが必要でなにが不要かの選別や、それに伴う闘争は明確な収束を迎えないまま、何事もなかったかのように世界は形を変えていく様子に違和感さえ覚える。
結局、いつまでも閉じこもっているわけにはいかない。そうやって僕たちは、新たな生き抜き方を探りながら日常を再形成していくのだろう。
2020年5月
僕は誰とも会わずにリモートで映画を撮った。
ひと月で企画から編集までを行い、5/31にyoutube上で公開した全編47分の青春映画だ。
『どこへも行けない僕たち』
あらすじ:
休校中の高校。クラスの目立たない男子木村は、学校に行かないまま高校2年生の春を迎える。
新クラスが発表され、SNSだけでクラスメイトとの交流が始まる。そのことを友人と電話でぼやいていると、クラスの目立つ女子川瀬から突然連絡が来る。
戸惑う木村だが、ぎこちないながらもコミュニケーションを始め、徐々に二人は関係を深めていく。
今必要なこと
僕は、この時代に生きる僕を憐れんだりしない。
今この瞬間に青春を送る10代の少年少女たちにも、ただ哀しみ、自らを憐むような姿勢ではいて欲しくないと、勝手に願っている。
自分たちが持つ人生における至上の時間を、誰にも奪わせたりなんてしないでほしい。
やっぱりどうしても、予想もしていないことは起こる。日常だと信じ込んでいたものは、わりとあっさりと崩れる。
そんな時に、何にもすがるものがなかったら僕は本当におかしくなってしまうだろう。16歳の僕は漫画に埋もれて生活していたし、常に音楽が鼓膜を揺らしてくれていた。一般的には「日常」と呼ばれるはずのあの日々でさえ、僕はそれらを拠り所にしていたのだから、今こんな時期に失われてしまって良いはずがない。
明日を楽しみにして今日も眠るなんて、すごく素敵なことじゃないか。
好きな子と席が隣になる移動教室の授業とか、塾がなくて早く家に帰れる日とか、好きな漫画の新刊の発売日とか。なんかそんな些細な未来への期待で僕たちは生きられていたりしないだろうかと思ったりする。
だから僕は、誰かにとってのその些細な未来への楽しみが少しでも増やせたら良いなと思う。どんな形であれ、そうするべきなのだと自分に対して思うのだ。
リモートについて
「リモートにしては良い」というものにはなりたくなかった。もちろん制作サイドとしてはかなり限定された環境で作るわけだから諸々の不手際は大目に見て欲しいなんていうのが甘えた本音だけど、観る人にとっては関係がない。貴重な47分を費やして純粋に良かったと思えるものが作りたいと思った。
リモートだからこその良さは実はあまりないが、挙げるとすれば、遠く離れた仲間と一緒につくれたことだろう。
まず、スタッフに京都在住の人がいる。彼は大学時代、僕の隣で作品についてとても深く考えてくれた。作品への熱意は誰にも負けない彼を僕は信頼していて、また一緒につくりたいと思っていたから、こういう状況の中、それが実現したのはとても嬉しい出来事だった。
さらに、実際には会っていないけれど、新しい出会いもこの作品に大きな力を与えてくれた。
僕は、5月3日にキャスト募集のnoteを公開した。
すると、3日間で200名以上の応募があった。
そのエントリーメール一つひとつにとても熱量が感じられて、一通一通読むたびにこの人達が欲しているような今作るべきものをつくるんだという気持ちが増して行った。
たくさんのご応募、ありがとうございました。
出演者を公募という形にしたのは、やはり同じようになにもできずに悶々としているようなできれば役に近い10代の人の「リアル」という何にも代えがたい大きな力を借りたかったからだ。きっとまさに今青春を送っている人たちに「自分の物語だ」と思って欲しかったから、映画世界の設定を現実の現在にする以上、やはり実感としての説得力みたいなものが必要だと強く感じていた。
キャストの二人も、文句一つ言わず僕のわがままに付き合ってくれた。僕もそれが頼もしくて、当初の想定よりはるかにこだわって撮影を行った。
今回リモートの撮影は色々と大変な部分があったが、意思を明解に伝える言葉を自分が持っていれば、実際に会わなくても大丈夫だなとは思った。もちろん会えるなら会ったほうが良いけれど、今後は今回みたいに簡単には会えないシチュエーションでのクリエイティブも増えるかもしれない。それならば、僕がクリエイターとしてつけるべきなのは「意思を明確な言葉で伝達する力」なのだと思う。
今後、よりそれが重要になってくると思える日々だった。
次に主題歌を担当してくれたアーティストとの出会いだ。
高校生からの友人であるおいしくるメロンパンのベースの峯岸翔雪くんに相談したところ、The Whoopsの宮田さんを紹介してもらった。Whoopsはライブで1度見たことがあって、格好良いバンドだなと記憶していた。
翔雪につないでもらって、夜、宮田さんに脚本を送った。その日の午前三時に「足りない」のデモが送られてきた。
その曲に、ビビった。こんなことがあるのかと思うくらい、ぴったりで、かつ映画の内容と一致し過ぎなかった。
「ちょうど今作っていた曲が似たテーマだったんで、急ぎでまとめちゃいました」と宮田さんは言った。
天才か?
脚本に歌詞を挿入し、通して読んでみる。音楽が作品を拡張してくれる感覚があって、この主題歌があればこの映画は「いける」と思った。
熱量がものすごくて、一週間程度で完成形まで持っていってくれた。近々フルが聴けるようになる予感がするので、楽しみにしている。
また、劇伴8曲を2週間という期間であげてくれた南方裕里衣さんにも感謝を述べたい。
南方さんは上記のキャスト募集のnoteを見て、「出演ではなく作曲という形で関わらせてほしい」と連絡をくれたのだった。
一度電話で打ち合わせをしたきりで、もちろん顔を合わせたこともないけど、作品について深く考えて作曲作業を進めてくれた。ここにはとても載せきれないほどの長文メールを、短いスパンで送りあった。デモが上がってくるとすぐ聴き、感想と要望を戻す。
普通に深夜だし、スケジュールもないし、OKでいいじゃんという考え方もきっとあるけれど、しっかりと受け止めて作業に向かってくれた。こんなにこだわって良いんだなと思えた瞬間だった。こういうレベルでクリエイティブをできることが本当に楽しかった。
多分、通常時だったら別の仕事もあるだろうし、こんな小規模自主制作には関わらないだろうと思う。この時期だからこそ、あり得た出会いだなと感じた。
現状を悲しんだり憂いたりすることは簡単だけれど、作品を通して経験したのは、この状況だからこそ叶うこともあるということだった。
そして、もしかしたらわずかしか存在しないかもしれないそれらを、僕たちは探していくべきなんだろうなと思った。
少々技術的な話をしてみる
なんかここまで自分の作品について語ってしまうと、うっかり勢いがついてしまったので技術的な話も書いてみることにする。
と言っても技術的な点においては、あまりポジティブな収穫はない。
・カット割りについて
リモートだからということもあるが、普段生活している部屋の中のみでの撮影において、フェティッシュな画面にするのはなかなか難しいと考えていたので、あまりそこにはこだわらず見やすい画面とカット割りを意識した。
前半部と二人が電話をするシーンでは、木村と川瀬のシーンが行き来するため、必ず切り返しになるようにカットを割った。
また、全然別の空間で話している二人をどうやって会話しているように見せるか考えたときに、電気を消して背景の情報を制限することで「異なる空間」という意識をなくし、ひたすら切り返しでつなぐという方法をとった。そうすることで、彼らが対面で話しているように見せられるのはないかと考えた。
演出的にも、「暗い場所でスタンドライトだけつけて話している二人」というのは、まるで社会から独立した個と個が、親近感を持ってコミュニケーションを取っているように見せられるのではないかという意図もある。そして何より、企画当初からイメージしていた画でもあった。
以下、むしろ難しかった点を挙げていこうと思う。
・芝居のイメージと段取りの伝達について
今回で言えば2人の部屋が舞台になるわけだが、そこでどのように動くべきかイメージをすることがとても難しかった。今までは実際にその場所に行って、自分で動いてみて芝居のイメージを固める方法を取っていたため、どう動かせばよいか考えるのに苦労した記憶がある。単純に部屋の中で大きな動きをつけられない上にカメラも固定のため、芝居はかなり限定されていた。また、固めた芝居を役者に伝達する作業にも労を要した。どこでどう動いて、どのセリフを言うのだという指示を実演しながら見せられないからだ。
今後はそれを踏まえた上で、芝居を設計し、画角を決めていくのが良いかもしれない。
・画角についてはそんなに(監督としては)難しくない
リモートでカメラを2人の家に送り、操作をして貰う形をとった。操作性と電源の観点からカメラはハンディカムを選択し、それをHDMIでビデオキャプチャー経由でPCにつなぐ(レコーディング自体はカメラ本体で行う)。そしてZOOMミーティングのカメラをハンディカムの映像にすることによって、画角のチェックをこちら側で行うシステムを整えた(この辺はプロデューサーのぶんけいくんが方法を提案してくれた)。
それを見ながら、「入り口から引きで。カメラを枕の方に振って」など指示をしていた。右とか左だとよくわからなくなるので、物のある方向で指示をするよう心がけた。
役者の二人はカメラのセットを行った上で芝居をしなくてはいけないから本当に大変だったと思う。僕としては、なにもしてあげられないもどかしさだけが募った。でも彼らは真剣に向き合ってくれたから、僕も妥協をすること無く画角には指示を出させてもらった。
・映像ではない部分が難しい
リモートの難しさは映像ではなかった。まず、録音が難しい。通常、映画の撮影においては、音は別で録るが、今回は当然現場のスタッフが居ないので、カメラのマイクと、役者の近くにボイスレコーダーを隠して回していた。うまく行っている部分もあれば、そうでない部分もある。
しばしば、「ZOOM越しにこちらに聞こえる音にはノイズは入っていなかったが、意外と現場では生活音が鳴っていた」ということが起こった。リモート映画撮影においては役者がスタッフも兼ねるため、そこまで配慮する能力が求められることになるが、芝居に集中しなければいけないしなかなか難しいと思う。録音に関しては高いクオリティを保持し続けることが困難であった。
こういう障壁があったことだけ後世には言い伝えていこうと思う。
*下記、参考までに今作のメイキングですので、興味あればご覧ください。
これからのクリエイテイブ
個人的な思いとしては、リモート映画が現場撮影の映画に取って代わる日は絶対に来ないと思う。
「やっぱこれリモートでもできるじゃん」みたいなことが数々散見された2020年の4、5月であったが、作品制作においてはそうはいかないと思った。基本的にはただの劣化版にしかならないと感じる。
今回僕が「リモート」に挑戦しようと思ったのは、リモート映画をつくりたかったからではない。こんな世の中においてでも生き抜かないといけない10代の子たちになにかできないかと考えたときに「映画をつくりたい」と思い、あくまでリモートでしか撮れないからスタートしたのだ。
しかし、僕らは問われている。今までできたことができなくなって、それでも願いを叶えたいときに自分を一つ進化させないといけないのだ。一本槍ではすぐに何もできなくなってしまう。
残酷なことに、現在の10代はこの日々の中で青春を送るしかない。「日常」だろうと「非日常」だろうと、人間関係に悩み、自分の打ち込めるものであったり救ってくれるものを追い求めるのだろう。
前述のように、リモート映画なんて、大変だ。些細なミスで全てがうまくいかなくなるかもしれない。だけど僕は、僕らのつくる作品を観て、かつての僕のような少年少女の日々の拠り所になれれば良いなと思う。
だからどんな形であれ、またきっと作品をつくるのだという気持ちを確かにしたのだった。