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高円寺ではよく美女が降りる。

僕は仕事でよく、中央線に乗る。
新宿駅を過ぎたガラガラの電車に揺られながら周りを見渡すと、稀に、雑誌やテレビで見かけてもおかしくないような美しい女性を見つけることができる。
白いふわふわした服を着ている人もいれば、髪を結んで真新しいリクルートスーツに身を包まれた就活生らしき人もいる。

そして、彼女らは決まって高円寺で降りるのだ。

まるでそこには美しい女性を吸い込んでいく力でもあるかのように、見事に彼女らは高円寺で降りてゆく。あるいは高円寺が人々を美しくする特殊能力を持った土地なのだろうか。はたまた、美女たちの集会所でもあるのだろうか。謎は深まるばかりである。

高円寺に住む男は幸福だ。地域的には彼女たちを独占しているからである。しかし残念なことに人には好みというものがあって、例えば僕がテラスハウスに住み着いたからといって恋愛的な何かが起こるわけではないように、それは高円寺在住の男たちもまた同じである。残念だったな、諸君。

まさか彼女たちも向かいの冴えない男の頭の中で、こんなトライアンドエラーがなされているとは思ってもみないだろう。頭の中は自由だ。許してくれ。

彼女たちは一体どんな男たちと恋をしているのだろうか。愛されているだろうか。どんなことを愛と感じるだろうか。少なくとも、その美しさが損なわれるようなものではなく、楽しく明るく健全なおつきあいをしていて欲しいなと願う。本当に余計なお世話だけれど。

ところで、僕は誰かを本当に愛した経験がないのだと思う。
恋人や友人が傷ついていたら、可哀想だなと思うし、力になってあげたいと思う。でもその行為をするに至るには、「そうすべき」という自分の中の倫理観が働きかけているように思えてならない。誠実であるのではなく、誠実であろうとする作為が、自分の中にチラついて、自らの優しさというものが疑念で濁る。

優しさの扱いについてずっと考えていた。
僕が誰かに施す優しさは、エゴなのではないか。自分のために、自分がやりたいから「優しさ」を行使するという範疇を超えないのではないかと、ずっと、ある種悩んでいた。
少し前、自分に似ている人たちに「優しさは自分だけでは成り立たない。すなわち、相手がそれを優しさと受け取ればそれは優しさなんだ。自分だけで成立するものではない」という回答をもらった。
それは自分でも考えていたことであったが、誰かからそう言われることで妙に納得し、その時はそれが正解なのかもしれないと思った。

ただ、やはり、今日自分の中の問題はもう少し深い部分まで広がっているのではないかと思い直した。つまり、問題は「優しさ」に留まらないということだ。

僕はこれを、「誠実さの純度」の問題と呼んでいる。

思えば、子どもの頃から疑わしいことは多々あった。
だれだれちゃんと喧嘩して怪我させちゃったから謝りに行こうといわれ、僕は自分はやっぱり悪くないと思いながら便宜的に謝った。謝りなさいと言われたから「謝った」のだ。その方が先生や親、そのだれだれちゃんとなど、あらゆる関係性がうまく保てるからだ。誰に対しても便宜的に誠実さを表現すれば、なんとなくうまくいくように思えてきた。無駄な闘争を起こさないためにそれは必要だったし、みんながそういうことをちょっとずつやっているから保たれている平穏があるのだと、無意識的に思うようになった。実際、それが求められる環境だったと思う。
そうして、「ここでしおらしく、反省したように見せれば許してもらえる」あるいは、「真剣な表情で愛してると一言いえばこの子を手に入れられる」。そういう不純な誠実さを日常でたびたび行使するようになった。その度に僕の心には確実に沈殿して溜まっていくなにかがあった。
本来ならば純度を保ったまま、誠実に、ごめんなさいや愛しているを言いたかった。それが一番いいに決まっている。そうあるべきだとは思いつつも、どうしてもよぎってしまう打算に心を痛めては、その痛みが感じられるだけ、まだ、純度を保とうという誠実さはあると実感する。そういうことでしか誠実さを確かめられなくなっている自分に、だんだん嫌になってきて、どうしたらいいかわからないでいる。

近ごろ仲の良い女性は、偶然にもみんな婚約者や配偶者がいる。そんな彼女らの、現在と未来を合計した幸福の総量はいくらになるだろう。とても計り知れない。それらを奪い取ってまで彼女たちと関係性を進めたいと考えるほど、僕は情熱的ではないし、責任感が強いわけではない。
彼女たちとする会話は、とても生産的だ。自分を良く見せようとしたり、なにかを与えるフリをしたり、感じてもいない好意を表現する必要がないからだ。ただ好きなことを喋って、好きなように笑うのだ。

こう見えて僕は彼女たちのことが好きだと思う。大切だと思う。恋人に感じるそれよりもずっと純度が高いように思える。関係性の名前がある方が、僕の場合、かえって自身の感情に疑念が生まれる。

だから彼女たちが、誰かの恋人で、誰かの奥さんで本当に良かったと思う。僕の単なる好奇心や承認欲求で、健やかな彼女たちが僕の人生の道連れにならないことが本当に嬉しい。これ以上進むことができない関係性というのは、案外悪くはないものだ。
どこにもたどり着くつもりのない関係性が、僕にとっては最も自然な形なのかもしれない。

さて、目的地に着いた。
オレンジ色の電車を降りて、仕事でもするかな。

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