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金木犀の香りに誘われて

10月の終わりころ、その日は秋晴れだった。前日の雨で湿ったアスファルトには空が反射して、暗いブルーをしていた。

また今日も同じ場所に向かう。8時間前に同じ道を通ったときはあたりは真っ暗だったのに、今はうんざりするくらい世界は明るい。

僕は憂鬱だった。毎日同じことを繰り返して、進んだ実感がないまま日々の速度だけが早まって行く。そのことへの焦りすらなくなった自分に落胆しつつも、具体的にどのようなことをすれば良いのか分からず、そしてそれらに考えを巡らす情熱もいつのまにか失せてしまった。

下ばかり向いて歩いていたら、暗い青の上に華やかなオレンジを見つけることができた。なんだっけこれ。

ああ、金木犀だ。

ふと上を見上げると、ほとんど花を落とした金木犀が深い緑色の葉を茂らせて立っていた。昨日の帰り道は、暗い中下を向いていたから気がつかなかった。こんなところに金木犀の木があったんだな。

僕はまた、彼女のことを思い出していた。

高校生の頃、僕には初めて付き合った子がいた。彼女は運動が得意でバスケ部で、きれいな黒髪のショートカットを揺らして元気よく体育館を駆けていた。よく、彼女が部活前に、体育館ではしゃぎ回る様子を購買に続く渡り廊下からひっそりと眺めていた。

教室ではみんなの目があってとても話しかけられないから、僕にとって彼女と比較的落ち着いて話せる帰り道は特別だった。
スキップするように歩くのが癖なのだろうか、彼女はいつも自転車を押す僕の隣をリズミカルに歩いた。元気な彼女がとても眩しくて、隣で見ているのがたまに辛くなるほど輝いていた。僕なんかとは住む世界が違う彼女と、歩いていても良いものだろうかと何度も思った。

毎日、彼女の部活が終わるまで適当に時間を潰した。ぼうっと音楽を聴いたり、学校の近くのコンビニに立ち読みをしに行ったり、誰もいない図書室で教科書を広げてうたた寝したりして放課後の数時間をやり過ごした。おかげで週刊誌に載っている漫画の展開はほとんど網羅していたし、図書室の先生とは仲良くなった。たまにガムや飴をいくつかもらった。
時間を潰すのは、別に苦痛ではなかった。彼女と帰れるなら、それで良かった。それが一日で最も幸福な時間だったから。

その年の10月25日。夏が完全に過ぎ去って久しい肌寒い帰り道、彼女は金木犀の香りが好きだと言った。僕は金木犀の香りが具体的にどういうものなのか、頭の中で思い浮かべることができなかった。多分僕はその香りを知らないのだと思った。知らないなどと言って彼女にがっかりされたくなくて、僕はいい匂いだよねなんて知ったかぶった。それを悟られまいと、僕は金木犀の香りを探しに行こうと提案した。その場で匂いを感じれば、話が合わせられると踏んだのだ。
僕は自転車通学で、帰り道にはよく寄り道をして古本屋に行ったり、ひとりでラーメン屋に寄ったりしていた。その時にいつも通るような道を、クラスの誰かに会わないか、仕事帰りの母に見られたりしないか少しそわそわしながら彼女を荷台に乗せて走った。彼女はとても楽しそうで僕は嬉しくなった。金木犀の香りなんて本当は僕はどうでもよかった。彼女とそうして、すこしいつもより長く一緒に居られることが、幸せだった。

結局、その日は金木犀の香りに出会うことができなかった。一週間くらい後になって、自分の家の近所で偶然、終わりかけの金木犀を見つけた。ああ、この匂いか。とわかったようなわからないような心持ちで、金木犀の香りを必死に覚えるように鼻から大きく息を吸った。しかし結局今でも、金木犀の香りと言われても僕はピンと来ない。どうしても、香りが覚えられないのだ。彼女と話を合わせるために嘘をついた僕に下された、小さな罰なのかもしれない。

それから半年経たないうちに、僕は彼女に別れを告げた。

理由はいくつかある。大きくは、この先多くの幸せを感じるであろう彼女を、僕の近くに留めておくのが恐ろしかったからだった。僕は優しくないし、粋じゃないから、きっと彼女の幸福をこの先幾度となく損なってしまうと思った。いや、単に彼女を幸せにする自信がなかったのかもしれない。彼女はきっと、他の誰かに幸せにしてもらうことができる。僕は彼女の好奇心旺盛なところや、他人を巻き込める引力を愛しいと思いつつも、僕には不釣り合いなものだと思っていた。僕ではない誰かといた方が、幸せになれるはずだと思っていた。でもそんなのは僕の一方的な思い込みだった。別れを切り出した時、彼女の悲しみは手に取るようにわかった。むしろそれが心地よくさえあった。僕はこんなに愛されていたのか、とそんな歪んだ短期的幸福に満足していた。これでいいんだと思った。彼女はこの先幸せを奪われないで、僕も彼女に愛されていて。お互い幸せじゃないかと信じていた。最初から最後まで、僕は彼女のことなんて一ミリも見ていなかったのだ。僕は僕が最も大切だったのだ。後悔している。今更どうにかして彼女に向き合いたい。いや、あのとき向き合うべきだったのだ。ああ、このことに気づけたのだから、どうか、どうか許してほしい。彼女に会う機会をもう一度ほしいと願ってしまう。今なら随分君を大切にできるし、僕だっていくらか魅力的になったと思うのだ。だから、どうか。会えることができさえすればなにか変わるのだ。きっとそうだとずっとまだ、信じている。少しは僕は君に釣り合う人間になれただろうか。いや、なれてはいない。そんなことはわかっている。でも君にまた会った時、いい男になったなって思われたい。それは君への愛ではないかもしれない。僕は彼女との失敗をやり直すことで、自分の正当性を保ちたいだけなのではないだろうか。それは愛ではないのだろうか。愛だとしてもそれは自己愛だろうか。僕は結局、彼女になにもしてやることができない。僕と彼女は絶対的に決別すべき運命なのだ。そうなのだ。彼女にとっても、そして僕自身にとっても本当はそれが一番好ましいことなのだ。わかっていたことじゃないか。あのときの僕はやはり賢明で正しい。そもそも彼女は僕のことなんか今更思い出しちゃいないだろう。とっくに過去の人間なのだ。彼女は多くの人から好かれ、その中で最も素晴らしい人と結ばれる。僕だけが何年も何年も思い出してはこんなところをウロウロしているのだ。情けない。恥ずかしい。こんな僕を見て彼女はきっと笑うだろう。いやだやっぱり会いたくない。わんわんわん。ああうるさいな。うるさい。

そんなことをごちゃごちゃごちゃごちゃ考えながら、秋空の青を仰ぐ。それは足元の暗いブルーよりもずっとずっと鮮やかで、巻雲は柔らかな絹のように頭上の大海に浮かんでいた。

視界の端に金木犀の木が見える。
僕は息を吸って香りを精一杯嗅いでみた。
でも、やっぱり匂いは分からなかった。

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