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満たされた日々の隙間に

僕の実家は、田舎とも都会とも言えないような地味な首都圏のはずれの街にあって、僕は市内の普通の公立高校に通っていた。
高校生3年生になって初めて彼女ができた。元気で明るくて、優しくて、ありのままの僕を受け入れてくれて、そしてそれを好きだと言ってくれるような素直な子だった。僕にとってとても大切な存在になった。
その頃は受験期のさなかであったので、毎日一緒に帰り、たまにサイゼリヤなんかに行って、たらこソースシシリー風を食べながら勉強をしたりした。そんな何気ない時間がとても愛おしかった。

みんなが受験に本格的に向き合っていく中で、僕だけが同じ熱量を持って勉強に臨めないでいた。教室の後ろに貼られている大学一覧表を見ても、マーチだとかソウケイジョウチだとかはどれも行きたいと思えなかった。ぼんやりとした根拠のない拒否感が、ずっとつきまとっていた。
受験勉強は具体的にどんなことをすればいいのかわからず、水色縦線の入った世界史の用語集をただひたすらに眺めていた。目的のない日々は、まるで退屈が退屈を食べて生きているような時間だった。だからこそ、彼女といる時間は僕にとって大切な時間だった。

それでも、冬の初めに行きたいと思える学部を見つけた。それは京都の大学だった。みんなが予備校などに行ってすっかり静まり返った放課後の廊下で、彼女にそのことを話した。ロッカーの上に座った彼女は、冬には短すぎるスカートを履いていた。そして、「やりたいようにするの応援するよ。京都、似合うと思う」なんて言った。その言葉の奥に確かな戸惑いが僕にも感じられた。窓の外には夕暮れが滲んでいた。
健気に応援してくれようとしている彼女を尻目に、僕は京都に行くことを決めた。

ここではないどこかにずっと行きたかった。今とは違う環境に行けば、自分がきっとなにか今よりも大きなものになれるような気がして、新しく出会うものたちが自分に決定的な変革をもたらしてくれるような期待があった。何かがしたいのに自信を持って熱中できることがなく、それでも湧いてきて抑え込むことのできないエネルギーの発露にずっと悩んでいた僕にとって、京都行きはちょうどよかった。

遠い地で一人暮らしをする。
その響きが自分をこれまでとは違う日常に連れて行ってくれるような気がしていた。

そして僕はその大学に受かり、住む家を自分でネットで決めた。京都の北西エリアで、並び順を「安い順」にして上から2番目の家だった。家賃はひと月一万九千円。いくら地方の家賃とはいえ、かなり格安だ。都内の大学に行けば費やさないで済む出費を最小限に抑えたかったのだ。

彼女と離れ離れになるのはつらかったけど、僕は彼女が好きだったし、彼女が僕を好きだということもおそらく確かだったから、さして問題ないように思えた。それよりも、京都の街を二人で歩いたり、一人暮らしの僕の家に彼女が泊まりに来て一緒のベッドで寝たりする妄想が膨らんで、かえって幸せだった。きっとこれまで以上に特別な時間を過ごせるのだと、そう思っていた。

京都に発つ日、彼女が見送りに来てくれた。新幹線のホームで涙をにじませて「バイバイ」と言って手紙を手渡す。僕は「またね」と笑って返した。
入場券って使うことあるんだななんて、不謹慎に感心していた。彼女がくれた手紙を読んで、京都までの時間を潰した。彼女と撮った初めてのプリクラにが同封されていて、そこに写った僕の顔がひきつっているのがおかしくて笑ってしまった。

京都に着いて、部屋に入る。築45年のそのアパートは外に錆びた螺旋階段があって、良く言えば趣のある外観とは裏腹に部屋の中は比較的きれいだった。靴を脱いで妙に高い玄関の段差を上がり、清掃したてのフローリングに足を滑らせて窓を開ける。僕の部屋は一階だったけれど、庭があって窓からは十分に光が入るようだった。庭には、老いた梅の木が天を目指すとも地を這うとも言えない角度で佇んでいた。すると、ふと違和感に気がついた。この床、傾いている。北東半分の床が、なぜか陥没して斜めになっているのだ。まあ安物件だしな、と妙に納得し、むしろ気に入ってしまった。自分には似つかわしいとさえ感じた。そして、4年間この6畳半のワンルームに住んでいくのだと思った。

それからの僕は比較的真面目な学生だったと思う。講義にはきちんと毎回出て、しっかり話を聞いた。せっかく京都まで来たのだから、その決断を肯定できるようにありたかった。日々目まぐるしく訪れる出来事に飛びついて夢中になっていき、求めていた日常はこれだと自信を持って言うことができた。そのことを電話で彼女に話すと、楽しそうでよかったと言ってくれた。
でも段々と共通の話題は減っていった。生活に慣れてくると報告することも減り、電話しても無言の時間が増えた。「電話する?」という彼女の連絡にも「ごめん今日は厳しいかも」と言ってごまかすようになった。彼女とのメールの数自体も減った。「おはよう」「今日も頑張ってね」「おつかれ」「おやすみ」と、まるで自動返信のように繰り返されていくやり取りは、歯磨きや洗顔と同等の日常の生活行為になっていった。その時の僕にとって、目の前のことのほうが遥かに大事なことのように思えたし、実際彼女の存在は僕の生活になにも影響を及ぼさなかった。そのことに徐々に苛立ちを覚えるようになった。

大学一回生の秋、彼女が京都に来た。京都に居ながらも、全然京都に詳しくない僕は彼女をうまくエスコートしてあげられなかった。カレーを作ってくれたけれど、どんな味がしたか覚えていない。高校生の頃はあんなに楽しみにしていた時間が、そのときは煩わしいとさえ感じていたのだ。自分の軽薄さに驚きつつも、妙に納得してしまっていた。
しばらくして、僕は彼女と別れた。これ以上彼女を傷つけたくなかったし、僕も彼女を蔑ろにする自分にうんざりしたくなかった。
彼女も妙に納得しているようで、「仕方ないよね。お互い頑張ろうね」と言って、電話は切れた。

それから冬が来た。
左大文字が刻まれた山の麓では、冬はすぐに日が暮れてしまう。そんな日は寂しくて誰かに会いたくなって、あらゆる好意を貪った。大して上手くもないセックスを、まるで発情期の犬のようにひたすらしまくっていた。そして彼女たちをシャワーも浴びずに帰らせる。そんな自分の不誠実さにうんざりしながら、どうしたら良いのかわからなかった。埋められない寂しさに、自分が消耗していくのだけがわかった。
しばらくはそんな毎日を送り、部屋にはプラスチックの弁当ガラが積まれ、6畳半の老アパートはゴミやガラクタであふれかえるようになっていった。誰のためにきれいにすべきかわからなかった。彼女や友人が来たときに困らないとようにと持ってきた数人分の食器も、新聞紙に包まれてダンボールに入ったまま部屋の隅に放置されていた。

僕の周りには、何もなかった。

とりあえずこれではだめだと思った。まず身だしなみが気になって洗剤を変えたりした。洗濯して着てみると、いい匂いがした。彼女の匂いに似ていた。なんてことを考えた自分を馬鹿だなと思って一人で笑ってみる。歪んだ口元を戻すきっかけが見当たらなかった。
部屋に溢れているゴミを捨てた。放置されていたダンボールも整理した。すると手紙が出てきた。
京都に発つ日、彼女から受け取った手紙だった。そこには、僕が居なくなるのが寂しいこと、それでも応援していること、京都行くの楽しみにしてること、浮気は悲しいからやめてほしいということ、出会えてよかったことなどが綴られていた。そして最後にはこれからもずっと一緒にいようねと書かれていた。僕は一体何が欲しくて、どこにたどり着きたくて進んできたのだろう。僕が守るべきだったのは、彼女に対する誠実な気持ちであるはずだった。大切な何かをあえて失うことが、大いなる選択だとでも思っていたのだろうか。僕はなんて馬鹿なんだろうと、少し泣いた。
なにも変わることはないことは知っていたけれど。

それからも彼女に会うことはなかった。僕は誰とも付き合う気になれず、3年半の間恋人も居ないまま大学生活を過ごした。

あれから数年経って僕も社会人になった。都内の小綺麗なマンションに引っ越して、家具もネットで吟味して注文した。なにも不満などない毎日が送れていると感じていた。
すると配達業者から、電話があった。なんだろうと思って出てみると、荷物が届けられないとのことだった。詳しく聞いてみると、配送先が京都の家になっていたらしかった。すみませんと謝罪をし、都内に再配達してもらうことにした。届けられないってどういうことだろうと思い、配達員に聞いてみると、もうあのアパートはないらしかった。

隣の部屋の水道の音が聞こえてしまうような薄い壁も、何故か傾いた床も、やたら狭い廊下も、錆びた螺旋階段も、その上から見る冬の朝陽も、さり気なく四季を告げてくれる庭の梅の木も、もうないのかと思った。
何より、彼女と、じゃがいもは小さめがいいなんてわがまま言いながらカレーを作ることもなければ、シングルベッドに文句を言いながら一緒に寝ることも、もうない。かつて描いた幸せは、もう二度と、叶わないのだ。

退屈とは縁遠く、かつて想像もしなかった環境で働くことができている。願い続けた遠くに、今は来られているのだと思う。
それでも、充実した日々の隙間に、叶わなかった幸せの幻影を見てしまうのは贅沢であろうか。



#小説 #日記 #はじめて借りたあの部屋  

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