2024/04/07 読書する身体が閾値を超える
朝おきて、ガストへ。10時半ぎりぎりにモーニングを注文。エミリー・ブロンテ『嵐が丘』の続きを読む。
『嵐が丘』は、二つの家のあいだに起こる複雑な人間関係についての物語なのだが、兄弟同士が結婚したりしなかったり、拾われた孤児が主人になったり、子供の名前が母親と同じキャサリンだったりして、最初は読んでいても何がなんだかわからなかった。
しかし、全体が600ページを超えるこの本を読み進めるうちに、だんだんとわかってくる。特に終盤になると、突然わかるようになる。誰が誰か、どこがどこか。登場人物たちのさりげない言葉のニュアンスも、身体に自然に入ってくる。
この「終盤に突然わかる」という感覚は、当然、長編小説ならではのものだが、あらためて考えるととても不思議だ。逆に言えば「それまではよくわからないまま読み続けていた」ということだ。『嵐が丘』については、体感で3分の2は「よくわからないまま」読んでいたと思う。
そして、読んだページのぶんだけ理解が増えていっていたのかというと、そういうことでもない。読む側の蓄積は直線的に増えていくのではなかった。「終盤に突然わかる」というのは、だからそういうことなのだが、蓄積の結果は、あるところで閾値を超えたかのように突然あらわれる。
自分にとっては、この「閾値を超えた」身体を作ることが、小説を読むということだ。すべてとばして最後の一文を読んだだけでは得られないものを求めて読んでいる。それはストーリーのオチに驚くとかそういうことではなく、言葉の連なりを自分の体内で持続させていくことによって、分析可能な部分を超えた何かをつくりだすことだ。だから読書は受動的な体験ではないし、精神的な営みでもない。とても能動的で、かつフィジカルな運動なのだ。
気がつくと3時間以上が経っていた。店員の視線が厳しくなってきたように思われ、弱気になり退店。本屋に寄ってから、そば屋で昼食。
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