バイソングラス
あの頃俺はズブロッカばかり飲んでいた。理由は簡単、安かったから。酒屋でも500円くらいで売ってたし、行きつけのバーでは4000円くらいでボトルキープが出来る。ボトルさえ入れていれば、手持ち2000円くらいしか無かったとしても何時間でもその店で飲める。ボトルチャージとテーブルチャージとソーダ代を払っても1500円くらいだからね。ミックスナッツくらいは更に頼めるわけだ。また「ボトルキープ」ってのがいい響きだよね。女の子を飲みに誘う時に「ボトルキープしてる店があるんだけど行かない?」てのは絶妙な誘い文句となった、それは現在進行形。
ズブロッカってのはポーランドのウォッカの商品名。ボトルの中に何やらわらしべのような草が一本入っているのが特徴的。それがまた独特の風味を持っていていいのだ。冷凍庫に入れておいてキンキンに冷えたのをストレートで飲むもよし、ソーダ割などにするも良し。バイソングラスは「聖なる草」という意味もあるらしい。牛の仲間の絶滅危惧種バイソンがよく食べる草だからバイソングラス。バイソンも絶滅危惧種なら、バイソングラスもポーランドのとある神秘の森でしか取れない貴重な草らしい。
そんな貴重なもので作られているのならかなり値段も張りそうなのに、たった500円。少し高くなったとは言え、2022年の今でも1000円くらいで買える。あの頃は円がもっと強かったのか、よほどズブロッカを大量輸入する業社があったからなのか、詳しい理由は知らない。何せ安くて美味しい輸入物で、何なら少し格好いいのだから、貧乏青年にうってつけの酒だった。
さてあの頃と言っているのは90年代末。音楽業界だけはまだまだバブルな頃、宇多田ヒカル”First Love”が800万枚売って日本におけるアルバム販売数記録を打ち立てた頃、俺はと言えば週に3日は新宿のバーを飲み歩く、月ー金派遣社員バイトをしていた頃の話。
俺の行きつけのバーは新宿三丁目の、Tom Waitsの1stアルバムの中の曲名が店名である、6畳くらいのカウンターバーM。バイトを終えて、どこかで安いラーメンでも食べてから、いつもように行きつけのバーに向かった。店のある2階まで階段を一つ飛ばしで駆け上がり、ミシッという音と共に木の扉を開けて中に入るとまだ20時のせいか、10席で満員な店はまだ俺が3人目の客。BGMはTom Waits 2ndのA面4曲目”Shiver Me Timbers”、一日一度はかけているマスターのお気に入りの曲。まだしわがれ切る前の声が心地よい、家族を置き去りにして出航する船員の歌、タイトルは「船板よきしんでくれ」と言う意味。きしむ板張りの床を踏みながら俺はカウンター右奥の席に座り、「いつものやつ」と注文する。キープしてるズブロッカのソーダ割りセットだ。
この日は一つ楽しみな予定があった。5つほど年上の姉さん、サチと飲もうと言う約束をしてたからだ。表参道でお洒落な雑貨屋の店長をやってるしっかり者な側面と、飲むと楽しい側面をもったサチと飲むのは好きだった。そしてこの日は飲んだ後のことも少し期待していた。
しかしなかなかサチは現れない。馴染みの常連や初対面の常連とかと時事ネタやバカ話で盛り上がってるうちに気づけば2時間が経っていた。そして22時も過ぎた頃にほろ酔いのサチが現れた。
「あらシンゴちゃんもう来てたの?あ、隣り座るね」
「え、20時過ぎって約束したやん!」と一瞬イラっと来た感情は、彼女が横に座ったことでスッと煙草の煙りと共に消えていった。あの頃俺は確かキャスターのスーパーマイルドを吸っていた。甘いバニラ風味のする日本製の煙草だ。その甘い風味と彼女の匂いの心地よさが、俺のイラッとした気持ちを遥かに凌駕した。
サチと何を話したのかは覚えてないが、気づけばかなり彼女は酔っ払っていて、俺もまんまと、というか予定通り終電を逃した。そしてバーから遠くない曙橋方面に住んでいる彼女の家まで俺が送っていくハメになった、というかついでに泊めてもらうことにした。うん、予定通り。
そこまでは予定通りだったものの、彼女は飲み過ぎていたようで、家に着くや否や吐き始める。仕方なく彼女の上着を脱がせて、トイレに連れて行って背中をさすり、水をあげて、、、と介護するハメになる。そしてちょいとドキドキしながら、濡れたシャツを脱がせて、パジャマ用と思しきトレーナーを着せて、ベッドに寝かせた。その途中、キスを迫られ、そのまま望むところと受けたが、そのあまりの酒臭さに俺は身体的にドン引きしてしまったので、俺はそのままソファに座って寝ることにした。朝方、お互いに酒がある程度抜けた後に、抱き合った。
色々と一段落して、そしてサチが入れてくれたコーヒーを飲みながら一服してると、突然彼女はこう言い出した。
「シンゴちゃん、バイトやめたら?私が面倒見るから。そしたら音楽だけに集中できるでしょ?応援するよ」
思わぬ言葉に俺の妄想にアクセルが踏まれた。
「ってことはここに一緒に住もうってことか?」
「だとしてバイトを辞めるとして、どう申請すれば良かったっけ?」
「え、でも彼女と暮らす俺、想像できるか?できないか?」
「でも音楽に集中できるっていいことかもな」
「いやでも、そんなヒモ生活って俺、ポジティブに受け入れられるんだろうか?」
、、、そんなこんな妄想が数秒で駆け巡ったのちに俺が発した言葉は
「あ、うん、ありがとう、考えとく」
その日から俺は無意識的にサチを避けるようになった。彼女がいそうな時間帯に新宿三丁目に行かない、もしくは違うバーに飲みにいくことにした。なぜだろう、やはり彼女との想像を絶する酒臭いキスが思い出されるからだろう。それ以外の、例えば見た目や、身体や、話してる分にはタイプだったんだけれど、あの酒臭いキスの衝撃の方が凌駕したんだろう。
そのまま一ヶ月ほど経った。時間というのは恐ろしいものと言うべきか、男というのは忘れっぽい生き物と言うべきか、バイソングラスが俺の嗅覚を消毒してくれたからなのか、
「サチに会いに行こう」「うん、彼女の提案を受けてもいいかもしれない」
と思うようになった俺は、再び、彼女が来そうな時間帯にバーMに行くようになった。でもなかなか会いたい時に限って会えない。あ、この頃はまだ携帯やスマホの時代じゃなかったから余計ね。相手の生態を把握して、推測で店に行くしか会う手立てがなかったのだ。
数回会い逃した後、マスターにそれとなく聞いてみた
「そういやサチは最近ここ来てる?」
「来てるよ。でも深夜朝方が多いかな」
「あそっか、俺はいつも終電で帰ってるもんな」
「ところでサチの男の話は知ってるか?」
「え?なに?知らないよ」(ビックリしつつも冷静を装って答えた)
「最近彼氏出来たらしいよ。あんな奴にも出来るもんだね。。。」(ここから先はもう聞こえて来なかった)
ここ一ヶ月の、俺の人生を、生き方を揺るがしかねない大事件は、あっけなく幕を降ろした。ヒモ生活、、、やってみたかったなぁと思うたびに「あの頃」の「サチ」のことを思い出す。「俺がもしヒモ生活を実現していたらどうなっていたんだろう?今の俺はあったのか?いやなかったかなぁ、、、」
ちなみに彼女は結婚して、母親になったらしいとバーのマスターから聞いたのはさらに3年後だった。
「マスター、”Shiver Me Timbers”をかけてくれ」
■教訓
甘い誘いに「じゃあ明日も来るね」と言う甘え行動力が伴っていないと、ヒモにはなれませんね。
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