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没後100年 富岡鉄斎

京都国立近代美術館で開催されている「没後100年 富岡鉄斎」を見に行きました。鉄斎は「最後の文人画家」とも呼ばれ、幕末は1836年に生まれ1924年に没し、今年が没後100年ということなので鉄斎展が何カ所かで開催されています。

京都国立近代美術館 入口近くの看板

昨日からの大雨がやんだものの、冷たい風が吹き荒れてせっかく咲いた桜がどんどん散っている岡崎公園。かなり寒くてダウンを着てもおかしくないような1日でした。今日は自宅を出るのが少し遅くなってしまったため、早めのランチを食べてから鑑賞しようと思いました。美術館の中にあるカフェにはテラス席があり、琵琶湖疎水に咲く桜が手に取れそうなほど近く見える素敵なテラスですが、残念ながら今日は寒くてテラスに出る気になれなかったです。

《勾白字詩七絶》 絵ハガキより

さて、富岡鉄斎展です。展示室内は撮影禁止でした。展示期間は4期に分けられていて、多くの展示替えがあるようです。今日は第1期で(しっかり調べずに見に行ってしまったため)見たいと思っていた作品の展示がなかったりもしましたので、3期か4期にもう一度見に行こうと思いました。

上の写真の勾白字詩七絶は、よーく見るとひとつひとつの文字が人だったり植物だったりします。人の顔も可愛くて、とても印象に残りました。

《空翠湿衣図》 フライヤーより

「文人画」というのは文人が描く絵画なのですが、文人は職業画家ではなく学問教養が高く学者に近い人で、その文人が余技として描いたものが文人画というのが一応の定義のようなもので、高い教養がなければ描けない内容や精神性があるとして職業画家の描いたものよりも高く評価されてきたそうです。鉄斎も自分を学者が本業で画業は余技だと考えていたようで(しかし作品数などを考えると本業と言っても良いくらいだと思われる)、画業を本業とする同時代の画家たちの高い技術を評価していたのだそうです。そんな人柄の鉄斎ですから多くの画家たちや文化人たちとも交流があり、日本画だけではなく洋画家たちからも慕われていたようです。

《富士山図》右隻 フライヤーより

良い絵を描くためには「万巻の書を読み、万里の路を行く」ことが必要であると考え、何を描くにも研究をし、そして自ら旅をして歩いたそうです。
上の富士山図の左隻は富士山の山頂が描かれていて、登山をする人たちの姿も描かれており、右隻の賛に名前の出てくる池大雅、高芙蓉、韓大年が連れだって富士に登ったという姿を描いていると思われます。

今回の展覧会では鉄斎の絵画だけではなく書斎で使っていた文房具や筆録、印章のコレクションなども展示され、鉄斎がどういう人であったか、その学ぶ姿勢、作品に対する考え方などを掘り下げて見ていくことのできる内容でした。

鉄斎をじっくりと見た後はコレクションルームへ。鉄斎と関連のある画家の作品も並び、面白かったです。また、キュビスムのコーナーもあり、お向かいの京セラ美術館とも呼応しているようでもあり(京セラのキュビスムもそのうち見に行きますよ)、とても見ごたえがありました。

梅原龍三郎 《雲中天壇》
パブロ・ピカソ 《静物--パレット、燭台、ミノタウロスの頸部》
河井寛次郎 《愛染鳥子》

上の河井寛次郎のこれは、意外というか、でもちょっと良いですよね。

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