散らない花はひとりでは描けない
アッキーが飛ばしまくっている。
飛沫を飛ばしまくるではないが、とにかく絶好調なのだ。
その要因は何か??
間違いなくインターン石田さんの存在だ。
彼女は4月からスウィングにやって来て、既にいるのかいないのか分からないくらい、この場に溶け込んでいる。
石田さんがいるとき、たとえば僕と話していても、アッキーは彼女を目で追い続け、僕を(いつも以上に)いい加減に、雑に扱う。
腹立つ。
先日は彼女に“それっぽく”絵の相談をしていた。
13年目の画家人生、そんな光景は初めて見た。
「背景は2色でいいと思う?」
「黄色? 僕は緑がいいと思うねんけど、どう思う?」
こうしてもっともらしく、なんだかんだと会話を引き延ばすのだが、とにかくエロい。
エロさがあまりにも露骨すぎて、そのうちエロく感じなくなってくるから不思議だ。
ところで通常、アッキーが女性に対して積極的にアプローチする場合(彼は基本的に誰に対しても物怖じすることなくフレンドリーである)、その姿に嫉妬したQさんから「スケベすぎる!!!」等の理不尽な喝が入り、でも結果としていい感じになだらかになったりするのだが、今回の場合Qさんは石田さんに<ほとんど興味がない>らしく、心穏やかにアッキーのハイテンションを見守っているのだ。
現在、「アッキーが何を描くか?」はすべて石田さんが提案しており、ここまで描くのが楽しそうなアッキーを見るのはやはり初めてのことかもしれない。
だって「家でゆっくりしたいから」という支離滅裂な理由(それはただの欠勤と呼ぶ)で在宅ワークをしようとするくらい本来的にはサボり体質の人が、最近では「日曜日は家で絵を描きました!!」と、まさかの休日仕事までしているのだから。
そうして石田リクエストにより、「ネモフィラ・インシグニスブルー」という花を描いたアッキー。
僕はその完成形を見せられて思わず目を疑い、驚いた。
本人にその自覚があるのかどうかは分からないが、なぜかアッキーが花を描くと、誰かが怒りや悲しみのあまりに花束を地面に打ち付けたかのように、花びらがバラバラになってしまう。
が、そこには1枚の花弁も散っていない、美しい花があったのだ。
僕が記憶する限り、彼がこんなに(僕目線で)綺麗な花を描いたのは史上2度目。
ひとつ目は実に10年前に遡り、ノリにノってる時期に描いた「カモミール」(Ackey/2011)である。
石田さんという存在が、アッキーの表現を根こそぎくらいに変えてしまった。
誰の、どんな表現も、他者との「関係性」によって生まれ出る。
また関係性の持ち方や編まれ方によって、表現はいかようにも変わり得る。
そしてこれは何も表現に限ったことではなく、あらゆる物事について言えることだ。
実はひとりで1から10までやってることなんて殆どなく(あるのだろうか?)、人の営みはいつも、誰かとの有形無形の、目に見えたり見えなかったりする関係性によって成り立っている。
例えば僕は今、アッキーがいるから、石田さんがいるから、スウィングが様々な人によって支えられ在るからこそ、この文章を書いている。
僕たちは「人に迷惑をかけてはいけない」といつの頃からか刷り込まれ続け、「何もかもを自分の責任にされてしまう社会」は悪化の一途を辿っているように見える。
しかしながら他者の存在なくして、人ひとりが立ち、歩くことなんて決してできやしないのだ。
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