不安だから笑う人、そう見えてるだけのこと
2020年3月20日から29日まで、THEATRE E9 KYOTOで開催した展覧会『blue vol.1』は盛況のうちに幕を閉じた。
この展示へと繋がる東九条との、2020年度を通じての関わりは、2019年の夏頃、E9のあごうさとしさんや蔭山陽太さんに「展覧会をしませんか?」と、お誘いいただいことをきっかけにはじまった。
お誘いはシンプルに嬉しかったが、でもただの展覧会はしたくない、東九条という地域に僕たちなりに、腰を据えて関わりたい、そう考えたのだ。
途中、「腰を据えて関わる」には1年では短すぎると感じ、プロジェクトの期間を2年間に設定しなおした(もちろんそれ以後も関わり続けたいと思っている)。
だから<vol.1>が示す通り、展覧会はプロジェクトの通過点、あるいは経過報告のような意味合いを持ったわけだが、想像以上にたくさんの皆さま(10日間:459名)にご来場いただき、とりわけ地元のおじちゃん、おばちゃんたちが数多くやって来てくれてシンプルに楽しそうに過ごしてくださったことに心躍った。
一般論として、「劇場」は近くにあっても遠い場所だ。
大きな達成感と疲労感に包まれながらもチーム一同、誰の気持ちが切れることもなく、4月13日は新年度一発目のゴミコロリだぜ! ……と意気込んでたら生憎の雨予報。ならば晴耕雨読。この機に東九条の歴史を学ばせてもらえませんか? と急遽「多文化交流ネットワークサロン」の宇山さんに無茶な打診をしたら、「私の知ってることしかお伝えできませんが……」とまさかのOK。いやあ、ほんとにお忙しいところをすみません。そしてありがとうございます。でもやっぱり石は投げてみるものである。
そうして昨年度いつしか知り合い、今ではスウィング主催(正確には「XLの夢主催」)のソフトボール大会にも参加してくれるようになった京都ダルクの皆さんと一緒に受けた宇山さんによる丁寧なレクチャー。感想や質問も途切れなかった充実の時間。
今年度はこうした時間も積み重ね、東九条のことをもっともっと知りたいと思う。
その帰り道。
あちゃみちゃんがしきりに宇山さんへの感謝の意を表す。
「いやあ、突然のお願いやのにあんなに準備してくれて、分かりやすく教えてくれて感謝しかないです」
本当にそう思う。
でもこんなにも真っすぐな思いを語りながら、なぜか彼女は笑っているのだ。
「いやあ、突然のお願いやのにあんなに準備してくれて、アハハハハハ、分かりやすく教えてくれて感謝しかないです、アハハハハハ」
昔からあちゃみちゃんにはそこは違うやろと誰もが感じる場面で笑っちゃう癖があり、そのたび「なんで笑ってんねん」ととりあえずツッコミを入れ続けてきた。だが今回のケースは余りにも奇妙すぎる。内容と笑いの乖離がどう考えも腑に落ちない。
そしてはたと、あれ? ひょっとして……とはじめて気がついた。
ひょっとして……パニくってる??
「そうなんですよ。うまく話せてないような気がして、話しながら不安で笑ってしまうっていうか」
うわあ、そうだったのかあ。確かに不安だから笑ってしまうってこと、普通にあるよねえ。
もう15年もの付き合いになるというのに、まったく気がつきませんでした。
この人どこか壊れてるんだなと面白がっちゃったり、失礼な人だなあと思ってしまってました。
反省です。
これまで本当にごめんなさい。
でも話しながら不安で笑ってしまって、笑いながらも話し続けるって、マルチタスク能力っちゅーか、それはそれでかなり高度な技術っすよね。
『blue vol.1』では「青い? そう見えてるだけだよ。」というコピーを掲げ、ステートメントのタイトルにした。ここにステートメントを再掲したいと思う。
blue vol.1
青い? そう見えてるだけだよ。
多文化共生、共生社会、社会包摂、多様性……。今という時代をやんわりと彩るこれらの言葉に嘘臭さ、もっと言えばうさん臭さを感じている人は少なくないだろう。なぜだか生きた言葉として胸に響いてこない、と。真剣味が感じられない? 人間を上下に分断して上から物申す構図が透けて見える? 思うにその最も大きな理由は、これらが望むべき社会の在り方を示しつつ、今はまだ0、ナッシング、目指しはするけれども叶わないかもしれない、無理かもしれないという諦めにも似た空気を漂わせ、そんな空気が大多数の共通認識となっているからなんじゃないだろうか。
じゃあ、もう、既にあるとしたら?
つまり多文化共生は、共生社会は、社会包摂は、多様性に満ちた社会は、希望でも理想でも夢物語でもなく「もう既にあるもの」と捉え直してみたらどうだろう。「違い」を認め合うなんて簡単なことじゃない。本音を言えば、できれば同質性の高い、似た者同士で生きてゆきたかった。が、私たちは既に否応なく、望むと望まざるとに関わらず、自分とは絶対的に異なる他者や文化と共生しているのだ。
ゴミブルーは皆、一様に青い。圧倒的な異物感を漂わせながらも、赤でも緑でもピンクでもなく「全員、青い」という不可思議な共通項と安心感の中でヒーローになり切ったり、ゴミ拾いに夢中になってヒーローぶることすら忘れたりしている。けれど言うまでもなく、青い化繊の皮膜の下にいるのは年齢、性別、障害の有無等、様々に異なったラベルを持つ一人ひとりだ。
あるいは私たちはあまりにも「違い」に気を取られすぎているのかもしれない。人はそれぞれ決定的に違う存在であると同時に、多面的で多層的な生き物である。街も、歴史も、文化もそうだ。主観に任せて一面だけを切り取り、断定することなど決してできない。ならばもう既にある1を、2や3により良く変えてゆくために、なんとか同時代を生き、生き抜いてきた者同士として、まったく同じではなくとも折り重なり合う部分に注意深く目を向け手繰り寄せ、覚悟を決めて答えのない問いの中を歩いてゆきたい。
私たちは幼く青く、その目は濁っている。
でもだからこそ、世界をもっとクリアに見つめられる可能性を秘めている。
NPO法人スウィング
木ノ戸昌幸
言葉はいつも自分自身に返ってくる。
そう見えてるだけのこと。
きっと身近に、数え切れないくらいたくさんあるに違いない。
(「note:Swing×成田舞×片山達貴 展覧会『blue vol.1』より転載)
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