空気を読まない旅
たいと君は旅行の前の晩、沼田君に電話をかけてこう尋ねた。
「明日の朝、8時20分に起きていい?」
沼田君は戸惑いながら、いいよな? いいやんな? と何度か頭の中で慎重に確認してから「いいよ」と答えた。
コロナ禍により規模を縮小した旅行当日、滋賀県長浜市で突然ミサさんは沼田君にこう尋ねた。
「東尋坊の怖い話知ってる?」
これから福井に向かうから東尋坊の話をするのは分かる。
けれど自殺の名所として知られる東尋坊は基本的に怖い話ばかりなのでは? そう考えた沼田君だったが、一応「どんな話?」と答えてみる。するとミサさんは意気揚々と語りはじめたのだが。
「決まった通りに行かへんかったら消えるんやって」
……終わり? 沼田君は顔をひきつらせながら「説明が雑すぎて怖い」と答えた。
全く同感だ。怖すぎる。
その晩、大層なホテルの大層な6階の大層な窓から見える、福井県あわら市の夜景を見て、沼田君は「おお」と小さな歓声を上げた。
それに合わせるようにたいと君はこう言った。
「おお! 夜景が見える!」
思わず息を呑んだ。
いや、「おお! 夜景が……」の時点で「きれい!」と続くものと思い込んだ僕たちが愚かだったのだ。
確かに全然きれいじゃない。でも確かに見える。
全然きれいじゃない夜景を眺めて、大層でもないまあ普通の部屋に戻ろうとすると、沼田君が「あれ? あれ?」と言いながら鍵をガチャガチャやっている。古いタイプのホテルだから鍵を開けるのに多少コツが必要なのだ。
ガチャガチャガチャガチャ。
そうちゃんがイライラしはじめている。見かねて僕は遠慮がちに言った。
「部屋まちがってるよね」
古いタイプのホテルだから鍵を開けるのに多少コツが必要なのだ。
大層な大広間で食べる7人の晩ごはん。
特に会話も弾まず、あるいは弾ませようともせず、過剰なくらいにそれぞれのペースで進む食事の様子を見ながら僕は思わず言った。
「この中でいちばん空気が読める人は誰だろう?」
そう言ってみたところで、ちなさんやそうちゃんはそもそもあまり言葉を解さない。
たいと君は何も聞いておらず、ほとんど言葉を発さないKAZUSHI君はただケタケタと笑っている。
「さあ」とミサさんが苦笑いのような表情を浮かべる。
いちおう言葉を発したり受け止めたりしている(つもりの)僕も沼田君もミサさんもまるで自信がない。
本当に自信がないのだ。
けれど空気を読めない人たちが織り成して作るその場の空気を、誰もが心地よく感じていたのがいちばん本当だと思う。
空気を読まない、意味ありげな言葉をほとんど必要としない、そんな時間。
世界そのものが丸ごとこんなだったらいいのに。
もうすぐ旅が終わる。