もう学校なんて要らないんじゃないかな。
怪我した足の痛みと発熱で4時頃に目が覚めて、鎮痛剤を飲んで落ち着いて、スマホをいじっていたらこれを発見しました。
★"浮きこぼれ”の子どもたち【前編】 見過ごされてきた生きづらさ
https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/584/
浮きこぼれ。「できる」がゆえの苦しみ。これなんだよ! と心のどこかが浄化されるような気がしました。
僕の今の不自由な生活を、パートナーと共に猛烈ケアしてくれている沼田君は、かつて「できる人が苦しむというのが全く分からない」と言ってました。「全く」を「絶望的に」に置き換えてもいいくらいに。すぐにこの番組を薦めようと思います。
この苦しみに着眼したのは『ハートネットTV』がはじめてなんでしょうか? また別の意味ですっかり目が覚めてしまったけれど、腐ってもやっぱりNHKは(時々)いい仕事するなあ! と感激します。
「就職活動」はしていないけれど唯一NHKだけは受けたし(そして落ちたし)、ラジオだけど『ラジオ深夜便』の安定感は相変わらずスゴいし!
死に際に聴けるラジオを選べるとしたら間違いなく『ラジオ深夜便』だな。これを聴くためだけにわざわざラジオ買ったんだし。痛みと共に寝ながら生きる今の生活の中でもやはり重要なコンテンツ。後は映画と漫画と本と書くことと。後はYouTubeで見る千鳥とかかまいたちとかとろサーモンとか笑い飯とかの漫才。笑いは偉大だ!!
違う。笑いは偉大だ!! ではなく、浮きこぼれの話です。
そこまで自分ができたか? というと全くそうじゃありません。が、『まともがゆれる』にも書きましたが、僕の場合もできるがゆえに猛烈に苦しみ、不登校……を選べなかったばかりに自殺寸前にまで追い込まれました。
そしてできない人もまた、強烈な、一生ものの痛みを食らわせられるわけです。どちらも平均や普通や真ん中からはみ出してるという意味ではほとんど同じです。
ただ、その人がその人のままに生きることを許容できず、それどころか大きな罰を与えられる。酷すぎる話です。未だに、この2022年に戦後教育がどうのこうの言わなればいけないのもホントにどうかしています。
例えばひとりひとり絶対的に顔が違うように、ひとりひとりの【できる/できない】も絶対的に違います。
つまり「皆が同じでなければいけない」というクソ思想(失敬!)は無理難題どころか、論理的にも現実的にも絶対的に成り立たないわけです。
【できる/できない】にクソほどの意味なんてなく(失敬!)、「できる」はただ「できる」、「できない」はただ「できない」、それ以上でも以下でもない。それで十分、それが真実。以上! 解散!
僕は今でも時々、なぜあんな地獄を味わわなければいけなかったのだろうか? と考えてしまいます。
もう学校なんて要らないんじゃないかな。
子どものための学校が、子どもをいつまでも苦しめてるんだから。
僕たちは「学校がなければいけない」と思い込まされ、そこで思考停止してしまっているけれど、それって本当なんでしょうか?
色々な良い取り組みもはじまっているようですが、少なくとも僕の周りではひとつもいい話なんて耳に入りません。とにもかくにもいい加減、学校に過大な期待を幻想を抱くのはもう止めにして、行き先のひとつくらいに考えた方がいい。そのように考えています。
学校は行ける、行きたい子どもが行くところ。行けない、行きたくない子どもは当たり前に行かなくったっていい。いや、自分を傷つける危険な場所にはむしろ行ってはいけない。
勘違いしがちですが、そもそも学びや教育は学校にだけあるもんじゃありません。そこにあるのはただの、ちっちぇーちっちぇー「学校教育」に過ぎないのです。学びや教育ってもっともっとクソでかくってクソ豊かなものだ!
だからこそスウィング公共図書館みたいな場所がもっともっと必要だな、「行かない」を選択した子どもたちや家庭が安心して繋がり合えたらいいな、と思います。
そこから少しずつ、ほんのり明るい未来が開けていくように思うのです。