親切が人の力を奪う。
京都市バスに乗車中、少ししんどそうに見えたおばあさんに席を譲ろうとすると、「ありがとう。もうすぐ降りるから」と笑顔を向けられた。そっか、そっか。
しばらくすると、そのおばあさんは立ったまま降車ボタンを押そうとするのだが、もうちょっとのところで手が届かない。
「どうしようかな」と迷っているうち、彼女の腕はグン!と最後のひと伸びを見せ、無事にボタンを押すことができ、「とまります」の文字が赤く光った。
さて、僕の「どうしようかな」の正体は、「おばあさんに代わってボタンを押したほうがいいのかな」という、数秒間の逡巡である。そう、いつも迷うのが誰かに手を貸す、あるいは親切らしきものをかますタイミングだ。
たとえばこの場合、少し待つと彼女の手はグン!と伸び、ボタンを押すことができた。もしも僕が代わりにボタンを押してしまっていたならば、グン!の出番はなかっただろう。つまり彼女の腕が、その限界近くまで伸ばされることはなかっただろう。そしてグン!の出番がなくなればなくなるほど、彼女はどんどん、グン!ができにくくなったり、グン!の距離は短くなってゆくだろう。
海に泳ぎに行くことはあまりないし、ライフセーバーが見守っているような浜辺に行ったことは一度もない。ただの一度も。
だからこれは全くの想像(妄想)なのだけれど、たとえば浜辺に何度も何度も姿を現し、元気ハツラツ大活躍をしているように見えるライフセーバーは、実はあまり感心できない、三流セーバーなのではないだろうか。
対して一流のライフセーバーはなかなか動かない。何なら1日中ピクリとも動かない。が、めっちゃ見ている。本当に自分が動くべき事態にだけ動き、動かなくとも解決する事態には無闇に動かないために。
子どもが浜辺で転んだ。大声で泣き出した。三流が勢いこんで、飛び出していこうとする。一流は彼をスッと手で制す。しばらくすると子どもは自らの足で立ち上がり、砂を手で払って歩き出す。
「親切」や「支援」という「正しい行い」は、その人ができること、主体性、自立性、そうした大切なものを奪ってしまう可能性をいつだってビンビンに秘めている。なのにそれは「正しい行い」がゆえに、本当にそれをすべきだったのか? ただの自己満足ではなかったのか? あまり顧みられることがない。でも一方でこの社会に決定的に足りないもののひとつは「おせっかい」だなあ、なんて真剣に考えてもいるし、主体性や自立性を尊重するふりをして、その実、面倒くさいから何にもしようとしない人がたっくさんいるのも現実だと思う。
僕はさっさと降車ボタンを押して、「ありがとう」と言われてしまえばよかったのだろうか。
いや、待てよ。これがおばあさんじゃなくって降車ボタンを押さずにはいられないQさんやかなえさんであったならば、僕はキッ!と厳しい目つきで睨まれていたのではないか。
いやいや、あのおばあさんだってQさんやかなえさんの「一味」だって可能性もあるじゃないか。
たぶん答えは永久に出ないし、正解はひとつではないのだと思う。
だからやっぱり最後はここに落ち着く。
親切も支援もおせっかいも、自分の意思で、自分が決めて、自分がやりたいからやるのである。
ここがぶれてしまうと「押しつけがましさ」や「ええことしてる感」が漂ってしまい、場合によっては相手に申し訳なさすら感じさせてしまうことだってあるし、逆に自分軸さえぶらさなければ、失敗したって上手くいかなくたって「誰かのせい」になんかせずに、何度でも自分自身を出発点にできる。
人生の主語はいつだって自分自身なのである。