<新人の便器>の気持ち
いつものトイレの扉を開けると湖であった。
つまり夜家に帰って用を足そうとトイレの扉を開けると、床いっぱいに水が溢れ、水たまりを超えてもはや湖みたいになってしまっていたのだ。
天井の片隅が太古の自然が長い年月をかけてつくりあげた珍しい岩のように不自然に大きく膨らみ、そこから雨がダダ漏れていることは一目で分かった。
雨漏りの多い家だと思う。
1970年代、僕が生まれる前に建てられたごくごく普通の、サッシが銀色の懐かしい家。
およそ6年前、ひとりで暮らしはじめたその直後から雨漏りに悩まされ、ようやく昨年、キッチンを舞台に繰り広げたその闘いに終止符が打たれたかのように思ったら今度はトイレ、というわけだ。
雨漏りはどこでも困るが、トイレはまた格別である。
なんというかトイレは「お父さん」が誰に気兼ねすることなく新聞を読める場所。
そんな風景が遠い昔の風景であるならば、現在進行形のひーちゃんが毎晩22時から23時までの約1時間、<何も持って入らずに>ただ便座に腰かけて過ごせる聖域(だいじょうぶか? ひーちゃん)。
つまりは誰もが安心して過ごせる究極の空間であるはずなのだ。
そんな空間で、いつ雨が頭上から雨が落ちてくるか分からないという不安と共に用を足すのは、甘ったれた現代人にとってはなかなかの苦行である。
雨降る野っ原の真ん中で自然への感謝の念を込めて歓喜の咆哮を上げながらかます野グソとはずいぶんとわけが違う。
穴の開いた天井と便器を交互に見つめながら、その所在ない気分の正体にふと気づいた。
<新人の便器>の気持ちなのだ。
私は今、何もかもに慣れてしまった<ベテランの便器>を真下に見つめながら、同時に自分自身が<新人の便器>と化しているのだ。 <新人の便器>は常に不定期で、いつ訪れるか分からないそれ(オシッコやウンチやその他のトラブル)を緊張して待ち続けるに違いない。そうして経験を積み重ねるうちに大人の階段を一段一段のぼり、「ああ、こういうもんなんだな」と<ベテランの便器>に変わってゆくに違いない。
平日なんて絶望的に誰も訪れない山奥に、ほとんど意味もなく建てられた公衆便所の<新人の便器>のその不安と緊張といったら!
<新人の便器>の気持ちがはじめて分かりました。
親切な家主にこの気づきを話そうか迷ったけれど、そのせいで修繕が遅れて僕が<ベテランの便器>になってしまっては具合が悪いのでやめておいた。その甲斐あってかトラブル発生からおよそ10日後、我が家のトイレの雨漏りは(屋根からやり替えるという)根本的な解決を見ることができたのだった(……と願っている)。