人を生きる①-生きるということ

おはよう。

週末、スマホの画面を二度見した。
私のスマホには、三浦春馬の訃報のニュースが映っている。
目新しさに欠ける表現が許されるなら、意外だった。
とはいえ、意外というほど彼を知っているわけでもないので、部外者の意見に過ぎない。

ちょうど先週、知人がこんなことを言っていた。

これまで、有り難いことに親が敷いてくれたレールの上を走ってきたから、親が亡くなったら生きる意味がなくなる。楽に死ねるなら、楽に死にたい。

驚くのは、知人は一人で生きていくには十分な給料をもらっていて、生活には困らない。多忙な業種ではあるが、会社が理解あるため、ワークライフバランスもとれている。一見、どこに問題があるのかと思う生活をしている人でもそんなことを思っている。

私が二人に言えることは、「死」に対する勇気がない私は、彼らより未熟な人間なのかもしれないということだ。小さい頃から私は、比較的バイタリティが強い方だと思っていた。ただ、言い換えれば、「死」に対する覚悟ができていないだけだと思う。
きっと20代の頃は、いかに彼らのような人たちのマインドを変えたり、支えになることが大事なのか、気づいてあげることが大事なのかというところを配慮する「良い人」であったと思う。
だけど、「良い人」の定義が曖昧だ。それは「良い人」ではなく、ただの偽善者なのかもしれない。ただのエゴかもしれない。
そう思うようになった。

彼らのマインドが悪いとは思わない。
ただ、生きる意味を持って生まれた人はこの世には誰一人としていないのだから、「あの人はあのために生まれてきたんだ」とか、意味を探すことを辞めたらいいのでは、と思う。
誰しも、奇跡的に与えられた生を、少しだけ充実したものにするべく、日々を過ごしているのでは。

ご冥福をお祈りします。

今日もいってらっしゃい
そして、おかえりなさい

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スミヨ。
文章にあった絵を書いてくださる方、募集していたり。していなかったり。