旅に飽きる。という感情
海外旅行が好き。そういう話題の定型文は、これだ。
「どこの国行ったの?」
もしくは
「どこの国に行きたいの?」
私は後者の質問を投げかけられると、こう言う。
「直便で行けない国に行く」
なんとまあ、冒険心の強い回答だこと。
その意図はこうだ。
私の憧れの国は、女性のマジョリティが口を揃えて言うフランスにある。だが、そこにたどり着いてしまっては、白地図のスタンプラリーが終わってしまうような気がして行かないでいる。ましてや、直便があるので元気であればいつでも行けるであろうという魂胆だ。
元気なうちにしか行けない国に行かなければ。
何事も自分の目で見た感情や真実を大事にしたいという、デジタル社会の非効率な脳味噌を兼ね備えている私は、とにかくwebや本に書いてあることが事実なのかを確かめたい。なんなら、"今"を知りたい。
そんな想いでパスポートを握る。
初めてアジア圏を出た英国では(当時はまだ初心者なので上記のような考えはなかった)、文化や建造物の違いにただただ圧倒され、一人で感動しきって約1ヶ月の滞在を終えた。誰かにこの感動を共有する術はないものかと、当時はまだmixが主流だった日本で内輪向けにfacebookを活用した。
それからというもの、国際学会も含めて、一人で旅することに慣れた。途中、何度か知人と旅行することもあったが、私には私の旅の仕方があるんだなと思ってしまい、なんだか申し訳ない気持ちだった。
そうして何度か旅をしていた社会人2年目頃。ふと自分の中にある普段と違う感情に気づくのだった。
飽きた
この飽きたという感情の原因はどこにあるものなのかと、考えあぐねた。
飽きたってどういうことだ。自分の好き勝手に、行きたいところに行って、食べたいもの食べているじゃないか。
でも、感情は素直なもので、飽きたという感情に気づいた私は、旅の後半、どんな気持ちで街を歩いていたのか覚えていない。
GWは、ベランダから海外旅行しようと、海外旅行の著名人のエッセイを読み更けた。著名人と肩を並べようなんて思わないが、同じ感情を持った時があったと書いてあった。その著者は、その飽きた感情を、それまでしていた旅のスタイルと年齢や思考に乖離が生じたのだと解釈していた。
なるほど。そういうことか。
飽きた。なんて、自分のやり旅を否定しているようで、なんとも口に出せずにいた数年だったが、救われた気分だった。
そしてまた、彼女のエッセイはレビュー通り面白い。各章にオチがちゃんとあって、著者の自我のために書いているわけではないことがわかる。
また別のエッセイも読もうと思う。
今日もいってらっしゃい
そして、おかえりなさい