人を生きる②-子供を授かるということ

おはよう。

先日、友達が2人目の子供を産んだ。
その半月前、別の友達が1人目の子供を産んだ。
出産とは、なんたる偉業なんだと同性からしても思う。
感情を人に伝えるのが上手くない方なので伝わらないかもしれないが、心からめでたいと思っている。

週末、母と子供の話になった。
文脈としては、母の時代と私の時代では「結婚」や「出産」に対する考え方が変わったというところだ。
結婚したら幸せ、子供を授かることが幸せ…
母の時代はそれが全面的に支持され、圧倒的なマジョリティだった時代だ。20歳を迎えて数年もすれば、しきりに周りから結婚の話題を振られる。そんな環境はしんどいだろうなと、私には力なく同情するしか術がない。

確かに、大学卒業、就職を経ると、世の女性たちは「結婚」という熟語が頭によぎる。と同時に、周囲が結婚し始める。
順当に?結婚したとして、次に襲い掛かるワードは「子供」だ。それも、女性の年齢を気にした有り難い気づかいからやってくる。

私は、大学院という名のモラトリアム延長期間を設けさせてもらっていたので、新卒1年目の時は、同学年の友達は入社3年目だった。
入社3年目といえば、だいたい仕事に慣れ、責任のある仕事を任されたり、はたまた仕事に慣れたことによる次なるステップを考える時期である。それが、女性の場合は「結婚」に至ることが多い。私の周りもそうだった。
モラトリアム期間を謳歌した私は、脳内お花畑だったようで、「なるほど。現実はこういうことか。」と痛感した。

そんな私を横目に、学生時代に良く遊んでいた気の知れた男友達からは、「女は賞味期限があるのだから、結婚したいのなら、自分が結婚する相手を早く見極めるべきだ」なんて言われたこともある。
私と時を同じくして新卒になった学部卒の後輩にも、似たようなことを言われた。
まあ、言いたい気持ちはわかる。仲良かったが、私とは長く付き合えない人種だと思った。

歳を重ねるにつれ、子供を授かるということがどういうことなのかを考える時、親とはどういうものなのかを考える。
子供はきっと、「なんでなんで」マシーンだ。「なんでママとパパは結婚したの?」「なんで勉強するの?」「なんで空は青いの?」「なんで晴れた時の太陽は白いのに、赤色で色を塗るの?」「なんでママとパパは喧嘩するの?」「なんでお芋は土の中で育つの?」「なんで僕はママのお腹から出てきたの?」「なんで、あの子のお家はいつもお迎えの人がママやパパじゃないの?」
そんな「なんで」に答えられる準備はできているのだろうか。と自問する。
そんなこというと、また頭でっかちな性分が出てるよと昔の上司に言われそうだ。

ただ、子供の頃の「なんで」に対する親の回答って、その後の子供の考え方や人生においてとても重要だと思っている。蒔いた種に、どんな水をどんな風にあげるかで、花は変わる。そんなところだと思う。

ただ、何が一番大事かといえば、親が確固たる考え方を持っているかではないかと思うようになった。もちろん確固たる考え方が懐深い考え方であると尚良い。そんな風に思う。

とはいえ、まだ我が子というものを経験したこともなければ、実は全く産めない身体かもしれない身としては戯言に過ぎない。

世の母親たちよ、あっぱれ!

今日もいってらっしゃい
そして、おかえりなさい

文章にあった絵を書いてくださる方、募集していたり。していなかったり。