記録に残すこと
なんでもかんでも記録に残すのが好きです。
でもラクじゃないと続きません。
見た映画の感想を3行で書くっていうのも友達の真似をしてやっていたことがあるんですが、見ながらたくさん考え事をした映画だったら何千字でも感想を書けるのに、何も考えられない映画だと何も書けず、ほんとうに一行も書けない映画もあったので、(つまらなかったとかじゃなくて本当にみながら何も考えなかった)やめちゃいました。
代わりに半券帳をつけています。
もともと悪口とか愚痴とか、死にたいとかいろいろ殴り書きしたひどいキャンパスノートを持っていて、それが半分くらいになったあたりで「これは精神衛生上よろしくない」と思って映画の半券や観光チケットやなんかいろいろ楽しかった思い出のものをノリでびっちり貼り付けて本文が見えないようにしたことがはじまりでした。
ただただ恥ずかしくて苦しい記憶を隠したいという気持ちだったんですがこれが楽しくなって今も続けています。映画に行ったら半券を取っておいて、おうちに帰ったらただノートに貼り付けるだけなのでラクです。手帳にちょろっと書いただけだったときは埋もれがちだった映画やおでかけの記録がパッと見られて楽しいです。今見返してみたら、今年はコロナの影響で全然映画館に行っていないことに気づきました。
あとは、小学校6年生くらいから毎日日記を続けています。ノートはなんでもよくて、自由帳からメモ帳からいろんなものを使ってました。今51さつめを書いているところ。一番お気に入りなのが、無印で売っている単行本ノートです。これは何回かリピート買いしています。分厚いし、持ち歩きにも書くにもちょうどいいです。外見がシンプルなのでめっちゃシール貼ってます。魔ゼルな規犬のシールとかよく貼ってます。
日記を書くのが続いたのも、ただただラクで面白かったからだと思います。あと癒し。めっちゃ癒し。自分で考えたことを、誰に見せるでもない、誰にも見せないからこそ正直にだらっと書ける、自分で自分をゆるくカウンセリングしているような感覚です。でもただの習慣で、娯楽なので、なんのためにもならない気がします。自分を見つめなおせるとか、読み返した時に面白いとかはあるけれど、それで文章力があがるわけでもないですし。
文章力は多分筋トレみたいなもんで、人に読ませるための文章と、ただ自分のための日記だったら使う部位と負荷が大きく違うなと思います。エッセイとか考えていることをこういう風につらつら書くのと、小説を書くのとはまた違う部位だし、看護記録もまた違う部位だし、詩なんかもっと違います。だから小説力を高めるために日記を書くってことになったら、日記も小説風に書かなければならないでしょうね。
え、それちょっと面白そうやん。
自分が主人公のお話しを書くみたいなもんやん。
その調子で日々の記録を書くのもよいかもしれませんね。
人の日記を読むのもまた好きなんですよ。二階堂奥歯さんの「八本脚の蝶」はわたしにとってバイブルです。たまに読み返しては、本を読むときの姿勢を正されるようなしゃきっとした気持ちになります。
わたしは物語は生み出せない、物語をまもる者だから、というようなことを日記の中で彼女はおっしゃってたような気がしますが、あれだけの記録が書けたらもうそれはあなた自身が物語だよ、と思います。
人間ってどんな人にでもそれぞれ、見た目からじゃ予想もつかないようなとんでもない物語を持っていたりしますよね。そういう自分自身の物語について語るとき、ほかのどんなことにも自信がなくて何も語りえないという姿勢の人さえも途端に雄弁になります。
「自分が嫌い」「わたしには自分がないと思う」という人が目を輝かせて語る自分自身の物語をきいているときが、わたしにとってはとても楽しいです。
だからみんななんでもいいから記録するといいよ。