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推しがいない/好きと得意と面倒くささ

わたしには推しがいません。

好きなものがある人が羨ましいです。

ハマれるものがある人が羨ましいです。

ハマりが長続きしないですぐに飽きてしまいます。

その時好き!って思ってもどうやら、いわゆる推しがいる人よりも熱量がだいぶ小さいみたいなのです。
たとえば好きなアーティストがいてもライブに行くほど好きになることが滅多にないし、ファンミーティングなども興味がないし、曲を聴いていても歌詞すら見ない、メンバーの名前を覚えないなんてこともあります。ただその時聞けていればよし。流していればよし。くらいの熱量しかありません。たまにその熱がブワーと上がっても、同じ曲や同じアルバムをひたすら繰り返し聴くくらい。

ひとつのことで頭がいっぱい!になることがそもそもほぼないです。あっても1ヶ月くらいしか持ちません。興味の対象はすぐにコロコロ変わっちゃいます。たしかに音楽や本や映画はいつもそばに必要で、何かしら手元でわたしを助けてくれるのですが、それがひとつのものではないのです。いろんなものをちょびっとずつ掬っては吸収しているかんじです。

憧れるほど素敵な人はみんな、自分の中に大きなひとつの救われた記憶をもっていて、推しを持っています。推しを持っていないと、推されるようなものは作れないのかもしれません。

でもずっとなにかを作り表現し続けることはしてきましたよね。やったりやらなかったりだけれど、仕事が忙しくて手が離れた時があってもまた必ず戻ってきました。誰にも推されなくても、表現は出てきます。母乳みたいです。出てくるもんは仕方ないという感じです。

好きと得意は違うってつんく♂さんがnoteに書いてましたね。

わたしは小説を書いたり詩を朗読したり歌ったり弾き語りしたりいろいろ試してみていますが、文章や音楽は自分にとってどうなんだろうと考え始めました。
今回は「好きか得意か」で検証してみましょう。

①歌
歌っている時はとても楽しいです。歌の練習をしている時も楽しいです。基礎練をしている時も楽しいです。手放しで楽しい感覚です。でもひとりでカラオケまで行くのは大体面倒くさいです。
歌……好き
②ギター
ギターは大変かな。向いてないなぁってずっと思います。楽器系は本当に向いてない笑
ギター……苦手
③詩
詩の朗読はどうなんだろう。気分が乗った時(母乳の出るときみたいな)にしか詩を書けないのでうまくならないのかもしれません。うまいかどうかはわからずに作っていますが、詩誌に投稿しても選ばれたことがないし、スラムで勝ったことがほとんどないのでたぶん下手なんだと思います。声に出すことは楽しいです。
詩……まあまあ好きだけど気分が乗らないとダメ
朗読……好き

ほぼぜんぶに面倒がついていますが、ステージに立つことはまあまあ好きだということがだんだんわかってきました。ステージというのはお客さんありきです。単純に好きだからずっとステージに立っていられるには、創作者と観客が同一人物でも成り立つ詩のジャンル(オープンマイク系のジャンル)でなら生きていけそうです。集客を気にし出すとなにもできなくなるタイプです。

④文章
文章を書くことはでんぐり返しとかよりは得意だと思っています……言いたいことをただ書くだけならどんなに億劫な時でもひたすらやれます。しかし小説はときに苦行です。うまく進んでいるとき、筆が乗っている時は結構楽しくてワクワクしますが、乗らない時は本当に乗らず、ポメラの蓋を開けるのもとても億劫になってしまいます。文章はつんく♂さんの基準でいうと「好き」よりも「得意」に位置しそうです。
人に向けた文章……得意(好きよりも得意優位)
人に向けない文章……好き

大体の検証が済みました。

つんく♂さん曰く、得意だからできる、と、好きだからやる、を間違えないようにするのが大切だそうです。得意なだけのものは飽きてしまって「やりたいことじゃない」と思ってしまうから。でも人のための文章ももともとは好きだから書いてたはずなんですよね…この飽きる感覚と億劫感は、わたしは大体のどんなものに対しても持ってる気がします。自分以外の人がからんでくると、途端に「面倒くさい」が挟まってきます。

好きか得意かというより先にわたしには、「面倒くさい」が問題になるようです。

だからきっと、推しを推し続けるとか、好きなものになら熱中できるとか、そういうのがないのかもしれません。

「面倒くさい」にどう向き合うか、次回はこれについて考えていこうと思います。

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