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1月の改装工事に寄せて

年明け1月4日から、17日までの2週間、店舗と厨房の改装を行うため、お店を休業いたします。

昨日お店のInstagramとFacebookでは簡単なご案内をしたのですが、今回改装をしようと考えた経緯や思いなどを、オーナーである自分の言葉で書き残しておきたいと思いました。

普段はnoteに書いた文をFacebookでシェアしていますが、今回は逆に先にFacebookに書いてそれを以下に添付します。



10年目の今年は、昨年導入したショックフリーザーやテンパリングマシン、パイシーターに食洗機などの設備投資で、製造の効率化による従業員の労働時間管理を改良し、同時に品質向上も図ったことの成果が年始から結果に表れてきた年だった。

1月から好調で、3月は単月での過去最高の売上となった。

しかし、あまりに毎日朝から晩までお客様で店内が混雑している状態は、未知のウィルスの感染を防ぐには逆に不都合になってしまった。

せっかく10年かかってこれだけお客様が来てくれるお店になったのに。

やりきれない気持ちと、未知のウィルスとか言ってるけど意外となんとかなるんじゃないか?という変な期待もあったが、懸命に働いてくれているスタッフたちを思ったら、その流れを一旦止めることは必然だと思えた。

4月から店頭販売をやめ、完全な予約での製造のみとした。

その代わり、電話かメールでの受注で市内であれば配達をするという形を作った。

過去最高の売上を記録した3月の翌月は、前年の6割の売上に留まった。

それでも、6割とはいえ、本当に多くのお客様に利用していただいた。

毎日何件も配達に回り、多い時は20件以上届けた。

行く先々で温かい声もかけていただいた。

毎日配達に出かける度に、震災の時を思い出した。

Smile for Birthday という活動で、約1年間、宮城県内にバースデーケーキを届けた。

ショートケーキも含めれば数千個は作った。

基本的にはボランティアで配達してくれる方に届けてもらっていたが、冬以降、なかなか配達してくださる方が見つからなくなってからは、自分で届けることも増えた。

お店も復活していたから、夜中に店のケーキを作って、朝3時に店を出て気仙沼までケーキを届けて、8時までに店に戻ってまた開店の準備をする、そんな日もざらにあった。

車を走らせている時に、いろんなことを考えた。

届け先はほとんどが避難所か仮設住宅だったから、家を失った方々に会いに行くのが大前提だ。

家だけでなく、家族や友人、大事な人も失った可能性は多分にある。

これみよがしな「いいことしてます感」が出ないように、恩着せがましい態度と見られないように、だけど変に悲痛な表情でわかった風な顔もしないように。

毎回、平静に渡せるように心を整えるので必死だった。

全国からこの活動のために寄付してくださった方々の気持ちを背負ってるという自覚だけが、行動を起こさせててくれた。

今年の5月にたくさんの配達で市内を回りながら、その時のことを何度も思い出した。

状況は違えど、みんなが困っているということに変わりはない。

変わったのは一日中マスクを付けてることと、車内で何度も手をアルコール消毒してることくらい。

俺一人がやれることは小さい。

世界を救うなんてことはできない。

でも動かずにもいられない。

コロナさえなければ…

今頃あれもやってる予定だった、これもやりたかった、いろんなものを諦めた。

正直なところ、2〜3年前から本当にいろんな所から2店舗目の出店どうですか?という話しをいただいていた。

条件を確認して、皮算用して、どんな展開ならいけるかなんて空想して。

たまたまタイミングや条件が合わずに見送っていたけど、展開しなかった一番大きな理由は、やっぱり根本にある「大きくするより強くなりたい」という気持ちだった。

本丸は、本当に頼もしいスタッフに恵まれて、いいタイミングで設備も増強することができて、売上も上がってきて機運は完全に高まってきていた。

でも、俺としては正直まだまだだ。

こんな不安定な状態で店舗展開なんて無理だ。

それをほぼ毎日思う。

だから自分は経営には向いてないと思う。

たぶんこの店は、俺が経営者じゃなければ、とっくにもっと稼げるお店になっている。

とっくに何店舗かできてる。

でも、俺が立ち上げたんだから、俺のやり方を貫こう。

6月以降に、イートイン以外を通常営業に戻してから、少しずつ覚悟を固めていった。

俺に合った形はたぶんこれだろう。

小さくてもいい、納得のいく仕事をコツコツやって、何かあった時には気持ちで動ける、そんな生き方でいい。

何百件と配達を回っている間に、少しずつ、少しずつ、自分のこれからの生き方とお店のこれからを頭の中で描いていった。

6月からたくさんのメディアから取材のご依頼をいただいた。

こんな時に本当にありがたいチャンスだったので、全部引き受けさせていただいたが、そこには今までと変わってほとんど自分じゃなくてスタッフを出した。

いろんな意味で支える側でいい。

パティシエの仕事は本来そうである。

そして、畑は全く違うけど、俺の親父もそういう仕事の仕方をする人だった。

今はもう引退してのんびり過ごしているけど、俺が小学校に入ったくらいから、ずっと新聞の販売店の仕事をしていた。

夜中の1〜2時くらいに、家の道路に面した集積用の部屋にトラックから大量の新聞が運び込まれる。

本来であれば、それを仕分けだけしておいて、あとは各々配達員さんがそこに取りに来るのを待てばいいのだけれど、うちの親父は集まった新聞を車に乗せ、自分のエリアの配達員さん全員の家に届けて回るという作業を毎日していた。

だいたい3時すぎに出発して、帰りは6時頃だったと思う。

雨だろうが雪だろが、滅多にない休刊日以外は毎日、何十年もひたすらその作業をしていた。

結婚して、3人の子供を授かって、人生これからさらに頑張るぞという時に病気で妻に先立たれて、親父は死ぬ気で働いていた。

家が仕事場だったから、俺は仕事してる親父をずっと見てきた。

大人になって、仕事をするってことはそういうことなんだな、って疑いもせずに覚悟をしてた。

何がそんなに親父を奮い立たせるのか、なんでそこまでできるのか。

大人になって自分も仕事をし始めてから気づいたのは、ただただ必死だったんだなということ。

団塊の世代ど真ん中、戦後経済成長のめちゃくちゃな生存競争と狂乱の中で、親父は悲しみを背負いながらも人一倍強い責任感と、世のため人のためという思いだけでひたすら働いていた。

そんな親父がある日、心筋梗塞で倒れた。

連絡があった時、俺は大学生で山形にいた。

すでに4年生で、卒業のための単位がギリギリ取れるか取れないかみたいな落第生だった。

親父は一命を取り留めたが、その後の仕事を代わってくれる人がいなかった。

それで、なんの取り柄も価値もない俺だったが、車の免許だけは持っていたので、親父が復帰できるまで代わりに新聞の配達をすることにした。

ほんの数ヶ月だったけど、小さい頃から知っていたはずの親父の仕事を、自分が代わりにやっている感覚はなんだか不思議だった。

不慣れだったから、遅くなってはいけないと思い、毎日3時には出発した。

真っ暗な道を車で走りながら、いろんなことを考えた。

結局留年した俺は、4年でいい大学を5年で卒業し、何の特技も身につけずにアホのまま仙台に帰ってきた。

アホすぎて本当に生きてるのが辛いと感じた。

親父の仕事は継ぐとかそういうものではなかったので、自分で仕事を探さなければいけなかったけど、何も浮かばなかった。

その時たまたま「忙しいから配達のアルバイトに来てくれ」と声をかけてくれたのが、仙台の老舗ケーキ屋「カウ・ベル」の社長だった叔父さんだった。

叔父さんも俺も親父も、周りの誰一人としてまさか俺がパティシエになるなんて夢にも思っていなかったけど、それが俺の今の仕事の始まりだ。

最初は本当にただの手伝いだった。

今の仙台キルフェボンがあるすぐ近くにカウ・ベルの工場があり、そこから泉のセルバや三越などの店舗に配達をしていた。

三越はすぐ目と鼻の先だったが、セルバは道路が混んでいれば片道で20分以上はかかった。

その配達の最中にも、いろんなことを考えた。

学歴も関係ない、給料も安い、肉体労働でしんどい、でも、工場の中は年齢も経験も性別も関係ない、できる人が上、できない人が淘汰される見事な実力の世界。

だから、そこにいる人たちはみんな本気だった。

小さい頃からパティシエになるのが夢で、憧れの世界にやっとの思いで入って、さぁこれから目一杯頑張るぞ!という5〜6歳年下の女の子と同期だった俺は、何の目標もなくただ中身もなくチャラチャラしたそれまでの23年を心から恥じた。

ちょうど一回り上の年齢のチーフは、若い時に細工菓子で日本一を獲っているような人で、仕事は厳しかった。

そのチーフから「この世界は、みんな18歳から本気で修行して、5年やればなんとなくどんな形かやっと見えてくるもんだ。すでに5年出遅れてるお前がみんなと勝負するには、みんながやってない時間に取り返すしかないよな」と言われた言葉が、20代の俺のケツをずっと叩いていた。

話しが逸れに逸れまくって我に還ったが、俺はどうやら、自分にとっての転機のタイミングで車に乗る機会が増えるらしい。

そして、良い悪いとか一切抜きにして、ただの性分として、自分のためより人のために生きたり仕事したりしたいんだと思う。

まぁ、たかだかまだ42か43年(どっちだっけ?)しか生きてないから、そんな考えもどこがでガラッと変わるかもしれないけど。

長くなりましたが、そんな自分が、今回考えて選んだ次の展開は、新たな店舗展開ではなく、改装による内部強化でした。

スタッフ一人一人の能力も個性も本当に頼もしいと思っています。

でも、彼らはもっと強くなれる。

それが、せっかくの貴重な20代、九二四四なんかじゃなくてあっちのお店いって修行してればもっと良くなったはずなのに…なんてだけは絶対に言われない、言わせないように、俺のベクトルはそこに向かっています。

前回の設備投資は効率化がメインでしたが、今回の改装は完全に品質向上が目的です。

とにかく今よりもっといい仕事ができる環境を作りたい。

今はとにかく毎日が手一杯で、なかなか新しい商品のリリースに至らずにおりますが、新しい体制ではしっかり実現していきたいと思いますので、是非これからもよろしくお願いします。

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