グラデーション
コロナ禍、なんて呼ばれる期間を今も過ごしているけれど、今から約2年2ヶ月くらい前までの自分と、今の自分は同じ人間なのか。
震災があった11年2ヶ月前までの自分と、今の自分は同じ人間なのか。
同じといえば同じ。
違うといえば違う。
エントロピーは増大し、物事も人も、変わっていくことの方が自然だ。
経験が増すごとに、あらゆることの「常ならず」を知る。
言葉があるからアレとコレは切り分けられ、らしさという個性を与えられる。
アレとコレは元々は同じものだったかもしれない。
今では信じられないかもしれないけど。
もしくは、アレとコレはいつか同じものになるかもしれない。
今はまだ想像できないかもしれないけど。
僕の泳ぎ方がぎこちないのは、グローバルを感じて多様性を許容すべきと思いながらも、なんともローカルな差別化で飯を食っているからなんじゃないか、などと思うことがある。
資本主義そのものは否定せずとも、時代に合わせて修正されるべき、とは思いつつ、日々は現状のルールの下で恩恵に預かっている。
どっちが正しいかなんて愚問だ、と遠ざけておきながら、自分の言葉に「いいね」が欲しい、みたいなことでもある。
変わっていくことが前提なはずなのに、人に関しては一貫していることが好まれる。
正しさで測ろうとすれば衝突は避けられないし、とはいえ衝突を避けるばかりでも調和は築かれない。
どこまでいっても矛盾を孕む。
僕が生きてきた時代というのは、経済が競争の原理で拡張してきたことで、合理的な考え方が尊ばれてきた。
そしていつの間にか、経済的な成功が生き方の成功であるかのように広まり、まるでゲームのように人生まで合理的な進め方が求められるようになってしまったように見える。
僕たちは、本来、矛盾だらけの生き物だ。
美しいも美味しいもカッコいいも可愛いも、まずはそれを認めないと本当の価値には辿りつけないような気がしている。
まるで正解があるかのように、成功例ばかりを追いかけるのはしんどい。
とはいえ自分は自分、と割り切って我が道だけを邁進するのもなかなかの精神力が必要だ。
だから、アレとコレを完全に別に見るのではなく、その境界がグラデーションで緩く繋がっていると見る態度が、生きにくさを解くためのコツのようなものになるのではないか、などと考えている。
アレとコレもそうだし、あの人とこの人も、そして自分と誰かも。