ラストマイル
「合理的な判断」が得意な人と得意ではない人がいる。
と仮定する。
もし、人間がどちらかでカテゴリー分けされるとしたら、もちろん僕は得意ではない方のチームのゼッケンを付けることになるだろう。
小さいながらも会社を経営している身としては、この特性はあまり望ましいものではないと感じることがよくある。
資本主義というゲームにおいては、間違いなく、合理的な判断ができる人たちのチームが勝ち残る。
このゲームのルールが適用されているうちは、自分にはなかなか勝ち目がないなぁ、などと考えるようになってからどれくらい経っただろうか。
ルールはルールだから、抗っても損するだけだし、生活自体がままならなくなるのは嫌だから、とりあえずはルール内からはみ出さない程度の奔放さで生きてきた。
ただ、本心としては、ルールチェンジを望んでいる。
そう思うようになったきっかけは、仕事の中にあった。
それは一つではなく、仕事の中にいくつも見出すことができた。
パティシエという仕事を選んで、もうじき24年になる。
いかに効率良く儲けられるかとか、将来が安定しているかとか、ある程度の年齢になったら引退しても生活に困らないとか、そんなことを社会に出る前にそれこそ「合理的に」考えていたら、おそらく違う仕事を選んでいたかもしれない。
けれど、大学を卒業したのがちょうど就職氷河期と呼ばれていた頃だった上に、ワガママに職種を選べるほどのポテンシャルも持ち合わせていなかったので、結局はそのタイミングで就ける仕事に就いたというのが本当のところだ。
縁なのか運なのかわからないが、たまたま出会えた仕事がパティシエだっただけなのだけど、その割にはなんとかここまで続けてこれた。
たまたま続いて、たまたまの今がある。
この話しの最初に、合理的な人と合理的でない人をチーム分けしたら、というような表現をしたが、そもそもそんな分け方は実はできないと思っている。
言ってることがめちゃくちゃに聞こえるかもしれないけど、どんな人にも合理的に判断できる面があり、またはあえて合理的ではない判断をする局面があったり、妙に合理的であることを避けてしまう傾向があったりする、という意味だ。
つまり、合理的であるということは、その都度ごとの判断の程度を測るものでしかなく、その人自体の特性を表すようなものではないと思うのだ。
「合理的である」ということを言い換えてみると、「理に適っている」という言葉が浮かぶ。
理に適った判断をする、または行動をすることで拓かれるのは、効率化された作業であったり、時間の無駄が少ない仕事であったりする。
そして、効率化された作業や、時間の無駄が少ない仕事によって得られるのは、生産量の増大であったり、経費削減による利益の増加であったりする。
生産量が増大し、利益の増加も果たせると、次に(あるいは同時に)は、どこまでも効率化を突き詰めて、大量生産の中からそれでも利益をかき集めていくパワープレイか、逆にモノそれ自体に意味や物性以外の付加価値をふんだんに持たせて高利益を獲得するハイブランドの流れか、に分岐していくように見える。
そして、そのどちらからもこぼれ落ちてしまうというルートもある。
資本主義が進行すればするほど、合理的ではないものは徹底的に排除され、研ぎ澄まされた効率化のもと、自己の利益を最大化させるためにその他の圧倒的多数が搾取されていく。
そしてその差はどんどん大きく広がっていく。
この図式の中に見てとれるのは、「合理的」と呼ばれるものが、いつの間にか「功利的」にすり替わっているという事実だ。
理に適っている、という言葉の「理」の部分が、どこまでも追求すべき対象としての「利」の方に傾いている。
というより、さもそれが当たり前のようにこの世界は振る舞っている。
衰退が始まっているとはいえ、まだまだ先進国と呼べる日本にいるからこそ、そしていつまでもアメリカ追従の路線から抜け出そうとしない国だからこそ、その世界のあり方が痛いほどよくわかる。
「功利的」とすり替えられた「合理的」な判断や行動ばかりを求められるシステムの中で、そもそも合理的に考えることが得意ではない人間にとっては、息苦しさしかないは当然だと言える。
話しの方向を少し変えるが、今日は、数日前に公開になったばかりの邦画「ラストマイル」を妻と観てきた。
慣れ親しんだ長命ヶ丘にあるBRANCH仙台が、メインではないがロケ地になっているとこのことだったし、僕は全く観ていなかったが妻が「アンナチュラル」と「MIU404」というドラマを観ていたそうで、それらのドラマがミックスされた上での新作映画とのことだったので行ってみたのだ。
あらすじを語るつもりはないので、気になった人は観に行ってもらえればいいと思うのだが、僕はストーリー以上に、まさに資本主義というルールを敷いてここまで突き進んできた先進国が今ブチ当たっている社会の病状を浮き彫りにして、見失ってはいけないものを考えませんか?という問題提議の映画だと感じ、そのメッセージを受け取った。と勝手に思っている。
産業革命から250年以上が経ち、様々な困難と工夫を重ねてきた歴史があり、現在は当時とは比べものにならないほど人権に配慮された形で経済活動は行われてはいるが、投資家がいて、使用者がいて、労働者がいるという図式だけは変わらないのが資本主義だ。
資本主義のルールの下では、合理的(=功利的)な判断が最優先であるから、結果を残さなければ生き残れない主人公(満島ひかり)はそのための当たり前の采配をする。
しかし、これだけ広く大きくネットワークが繋がっている社会において、どこかの一部が功利的に自己の利益を最大化しようとするアクションを起こせば、必ずそのしわ寄せが別のどこかに生じるのは当然のことだ。
それは単純に取引先にとっての経済的な負担であったり、信用の問題であったり、またはその先のユーザーへの負荷であったり、様々な形で表出する。
それがビジネスだ。
それで生き残れないのなら淘汰されても仕方ない。
そう言い切ってしまえる強者だけが跋扈できる社会、とも言える。
しかし、そんな経済も社会も、構成しているのは人であることがそこに足かせをかけていることを見失ってはいけない。
我々人間には、心情(メンタル)がある。
メンタルを鍛えるために、世界のトップビジネスマンたちは、禅や瞑想を取り入れて精神を整えたり、安定させることを心がけたりしているらしいが、逆から言えば、それくらいビジネスにおけるトップアスリートでさえ、精神を犯しかねないほどのプレッシャーと戦い続けなければ生き残れない状況に人間を追い込んでしまう、というのがこの資本主義というシステムなのだとも言える。
映画では、巨大物流倉庫の管理という重役のプレッシャーに押しつぶされてしまうリーダーの姿が、功利的に働かざるを得ないビジネスアスリートの現状として伝わってきた。
また、途中で何度も繰り返される「What's you want?」という囁き声で、この資本主義というシステムが隅々まで浸透した現在の社会で、我々はあまりに消費という行動に囚われすぎていないか、という問いかけも強く印象に残った。
映画の話しが長引いたので、ちょっと最初の方の話題に戻す。
パティシエとして仕事をし始めてからは23年経ったが、自分でお店を始めてからは14年が経った。
元からの性分も手伝ってか、今は年齢も経営規模もまるで違うのだけれど、ありがたいことに同業のいろんな経営者の方々とコミュニケーションが取れるようになった。
仲良くしていただいている経営者の中にも、合理的な思考が得意な人と、僕と同じようにあまり得意ではない人という差がある。(繰り返すが程度の違いだが)
合理的な判断が得意な経営者の方々の会社は、やはり商売の規模も大きくなる傾向にある。ように見える。
そういう方々と話しをしていると、「確かにな、なんでそうやればできるはずなのに自分はやらないんだろうな」と、自分がただ臆しているだけで、一歩踏み出す勇気がないだけの奴、のように感じてしまうこともある。
だけど、(あくまで僕が親しくさせていただいている方々の中には)どこまでも企業が青天井で成長できて、自分も果てしなく稼げるなんていう妄想を抱いている人はいない。
それは救いというか、なぜか安心する手触りの布地のような感じがしている。
合理的であることと、功利的な判断には、葛藤がなければいけないと思うのだ。
人間は「社会的ないきもの」であるから、一人では生きていけない。
一人ではないから、他人との間に摩擦が起きる。
摩擦が起きるから葛藤する。
葛藤を通じて人は成長する。
成長することで人は他人に分け与えることができる。
互いに他人に分け与えることで、分かち合うことができる。
そして摩擦は少なくなり、社会は少しずつだけれど成熟していける。
例えば、そう信じて生きていける人が増えれば、もう少し優しい世の中にならないだろうか。
僕が仲良くさせてもらっているフローリストの山田剛さんは、「花で世界を平和にしたいんだ」と、初めて一緒に酒を交わした時から語っている。
僕もそれは夢物語ではないと思っている。
「ラストマイル」の話しに少しだけ戻る。
巨大物流倉庫からの受注が全体の60%を超えている運送会社の部長(阿部サダヲ)と、その下請けで運送業務を担っている個人事業主の年老いた親子の姿は、どちらも大きなものに抗えず、状況に応じて自分たちの立場を変えざるを得ない立場にある。
だが、市場をコントロールするほどの大きな存在には抗えないにせよ、彼らに共通して見出せたのは、自分の労働への「誇りと喜び」だった。
性能は素晴らしいが価格競争に負けて倒産した洗濯機メーカーに最近まで勤務していた40過ぎの息子と、その息子に長年続けてきた運送業の仕事をレクチャーする年老いた父親。
どちらも、自分がやってきた仕事に誇りを持っているのが随所でわかる。
そして、会社の窮地に必死で奔走し、一時は諦めかけた運送業者の部長が、本社を巻き込んでなんとか挽回しようとした時に、社員や契約ドライバーたちにかけた号令にも、かつて自分もドライバーとして活き活きと仕事をしていた頃の喜びのようなものを感じさせられた。
自分はまだ23年しか勤めていないから、それらと重ね合わせるのはおこがましいのだけれど、感覚として共感できる部分は大いにある。
合理的な判断や考えを身につけて、仕事をうまく運べるようになることには、同時に労働の喜びも生み出す。
しかし、功利的であることにはどうだろうか。
理に適っている考えや行動の先には、その人自身だけでなく、分け与えることのできる他者の姿が想像できる。
功利的な振る舞いにも、その流れが全くないとは言えないだろうが、「功利的」はやはり矢印が自分の方向にばかり向きがちではないだろうか。
だから社会はこうあるべきだとか、人はこう生きるべきだ、みたいな答えのようなものを出すつもりで書いてはいないので、緩く終わりにするつもりだが、久しぶりに思ってることを書いてみた。
経営者という立場上、どうしても仕事を功利的に考えなければならないシーンが多くなってしまうのだけれど、そこに心から労働の喜びを感じられない性格のせいで、会社が成長すればするほど仕事がつまらなく感じてしまうという、なんとも残念で妙な穴に落ちてしまって、最近息苦しさを感じていて、なんとなくこんなことを考えていた。
その上で、今日たまたま観に行った映画のおかげで、あぁ、なんか通じる部分があるなぁ、と感じたので一気に書いてみた。(あと、石原さとみかわいいなぁも思った)
明日からの仕事に、その先に分かち合える誰かを創造して誇りと喜びを感じられるように。
夏休み最後の夜に。