努力と根性と諦めのバランス
諦めないで何かをやり遂げることの大事さと、上手に諦めて生き延びることの大事さとは、正反対ではないものだけれど、どちらもバランスよく必要だと思う。
「諦めないで」の反対が「無理しなくていいんだよ」だとする。
僕は今42歳なので、受けてきた教育や指導としては「諦めるな!」という色がなかり強い。
どこかで線を引いて区別したり、一括りにして世代のギャップを論じたい訳ではないけれど、今の10代20代には、かなり拮抗した割合でこの「諦めるな」と「無理しなくていいんだよ」が混在して投げかけられているように感じる。
良いとか悪いとか、正しいとか間違ってるとかを言いたいわけでもない。
今の時代にはどちらも必要なのだ。
だから、せめて話しをする機会がある自分のお店の10代20代には、なりたいものがあるなら諦めないことが必要だし、突き詰めすぎると心が窮屈になるからほどほどにすべきだし、つまりどちらも必要なんだよと話したりする。
ただ、この類の内容は、他人から話しで聞いても「なるほどそうだな」とは思っても、なかなか本当に納得するまでには至らないことが多いのではないかとも思っている。
体験して実感することで腑に落ちる、そんな感じではないだろうか。
この「諦めない」「無理しない」の他にも、実感を伴ってこそ自分の身に染みていくものというのはいろいろあると思うが、つまりは体験の場数が多い方が感覚を得やすいとも言える。
個体差としての「感度」をある程度フラットで見た時の大雑把な推論ではあるけれど、ゆえに年上の者が若年者にその実感として知り得た価値を伝えるという図式が存在するのだが、この際の伝える側の比重の傾きはかなりマチマチである。
なりたいものになるため、競い合う他人に勝つため、諦めないで挑戦することは大切だ。
負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くこと。
日本の40代以上にはこのイズムがこびりついている人が多い。
僕も職人仕事に身を置く端くれとして、その気概の必要性は確実にあると思ってやってきているので、これを単に「根性論」などと切り捨てたりはしたくないのだが、やはりそれ一辺倒ではなかなか自分が思っている通りには伝わない気がする。
だからといって、なんでもかんでも「無理しないでいいんだよ」という低ストレスなアプローチで自由奔放にやらせてあげて個性を伸ばす、というだけでもうまくはいかないと思う。
努力と根性で諦めずにひた進むのも大事、一方、無理につき詰めすぎて周りが見えなくなって自分を追い込んで無理してしまっている時に上手に諦めることも大事、だけどその両方の大事さを知るにはそれなりの経験が必要。
じゃあ若いうちはどうしたらいいんだい?
ってことになる。
こればっかりは、迷いながらそれでも前に進めとしか言えない。
立ち止まってもいいから、体感することを恐れずに前に進むしかない。
若いうちから、悔しい思いも恥ずかしい思いも、しないに越したことないと思っているのは大間違いだ。
悔しさや恥ずかしさ、惨めさや劣等感が最高の燃料になる。
ただし、ゴールを目指すだけが人生ではないから、時には立ち止まって頭も体も心も休めることを忘れてはいけない。
進むべき時に、しっかりと自分の意欲のギアをうまくコントロールできるように、そのために今は「何が大事なのかを体感して身につけていく」時なのだ。
「迷わず行けよ、行けばわかるさ」
の世代なんだけど、僕としては
「迷って当然、いつか行く時のために今はとにかくいろいろ体感しておこう」
くらいがいいんじゃないかと思っている。
最後に、僕の好きな竹原ピストルさんのヒット曲「よー、そこの若いの」から一節。
♪よー、そこの若いの
俺の言うことを聞いてくれ
「俺を含め誰の言うことも聞くなよ」
これは余談だが、自分のことを振り返って、僕がなんとかここまでこの仕事を続けてこれた理由の一つに、素直さと反面教師精神のバランス感覚がそこそこ良かったからなんじゃないかと思ったりもしてる。