見出し画像

ただ自分のために、書いておく

何年か前から、いろんなテナントに声をかけていただいていたので、自分の中にももちろん「いよいよ2店舗目の展開の時期なのかな」という考えは頭にあった

小さくても、芯のある強いお店を作りたい、という信念でこれまで10年続けてきたけれど、反面、ここまで周りに求めていただけるなら、思い切って多店舗展開に踏み出すことでいろんな人のためになるのかも、という意識も少し出てきていた

だけど、コロナがここまで世界全体の人間の心を不安にさせ、生活の在り方を一変させてしまうとは思ってもみなかった

居酒屋やレストラン、カフェなどを経営していて、本当に大変な思いをしている仲間や知り合いもたくさんいるので、いい気になってると思われるような事は絶対に言いたくないけど、ケーキ屋はコロナで一変した社会の中でも業績が伸びた業態の一つであることは紛れもない事実だ

うちのお店も例に漏れず、それまでの自店の知名度や云々を抜きにしても、コロナによる外出自粛の流れを受けて上昇したテイクアウト業態の堅調をあからさまに感じている

ただ、俺はこの流れをずっと冷静に見ている

今も続いているテイクアウト業態・ケーキ屋の堅調は、あくまでコロナ禍での必然でしかない

いずれかのタイミングで、なんらかの形をしたゲームチェンジャーが現れ、世の中は次のステージに進んでいく

肝心なのは、その時にどう動くか

現時点でどう動けばいいかは、ぶっちゃけその時にならないとわからない

けれど、どうにでも動けるように準備していなければ、いざという時には動けるはずもない

やはり、いくら状況が変わっても、常に基盤・足元・芯を「しなやかに強く」鍛えておくことの大事さは変わらないんだな、と再確認した

それが去年の8月頃だった

そこから具体的に頭に浮かんできたのは、新たな店舗展開ではなく、今の実店舗の強化だった

なぜなら、まだまだだからだ

今のこの状態で、一端になったつもりで少しでも調子に乗ったなら、アフターコロナの世界では完全に淘汰される

現に、これだけテイクアウト業態は好調と言われている中でも、閉店を余儀なくされたお店がたくさんあるのが現実だからだ

必要なのは、どんな状況に置かれても適応できる力だ

自店を振り返ると、ここ約3年の時間は、主に労働環境の徹底的な改善を行ってきた時間だった

開業してからしばらくは、採算を合わせるのに手一杯で、小規模の個人事業主という立場を言い訳に、スタッフにとってはどう見ても恵まれた労働環境とは言えないお店だった

でも、3年前に将来のことを考えた時、一番に取り組むべきこととして強く思ったのは、何よりも人に手伝ってもらうための環境作りだった

心臓の手術を受けて、40年で初めて死ぬことをちゃんと考え、人に助けてもらわないと生きていけないのだから、せめて人に思う存分に力を発揮してもらえる環境を作る努力をしようと思った

入院・手術で2ヶ月も全く何もできなかった間に、お店を支えてくれた正昂と嫁とパートスタッフの方々

その人たちへ恩を返したいというよりは、営業活動も雇用関係も、全ては互いに支えて支えられて成り立っているのだから、互いが相手のためを思って良くなる方向へコトを動かしていくのが理想だなと思った

なんとも単純で当たり前のことなのだけれど、何千万・何億稼ぐことに夢中になるよりも、自分は自分の経験からそう思ったのだから、素直にそれを形にしていけばいいのだと

そう思い、約3年かけて、同じ規模の同業他社に引けを取らないと自負できる雇用環境を作った

そして、ようやく果たしたかった雇用に関しての整備がひと段落し、次のステップとして、今の店舗の改装をすることに決めた

それが去年の9月だった

話しは少し変わるが、去年の4月から東京のパティスリーに新卒で就職が決まっていた宮城出身で短大卒の女の子が、コロナでの経営不振を理由に、上京直前の3月に内定取消しになり、数ヶ月の間、仙台でアルバイトを転々としているという話しが流れてきた

募集など全くしていないタイミングだったけど、会ってみて話しを聞いて、きっとこの子は俺が雇うべき人材で、会うべくして会ったんじゃないかなと勝手に思った

その子がかわいそうだから、なんて理由では決してない

震災を経験して、外野からのそういう感情がどれだけ無用のものかを我々は知っている

俺が望んでいるのは、すでに今いるスタッフたち、そして彼女が、それぞれに自分と違う経験をして、違う境遇にある存在に対して、どれだけ寛容になれるか

チームで事を為す、みんなで力を合わせるという営みの中で、他人をどれだけ思いやれるか、その訓練にうってつけなのが仕事なのだ

彼らは俺の考えをしっかりと受け止めてくれた

パティシエとしてのスキルや経験はまさにこれからだし、俺も含めみんなまだまだ発展途上だ

だけど、うちのスタッフたちの精神面の成長は本当にたくましいし、素晴らしい

俺はそう思っている

メンバーは揃っている、彼らへの環境の整備や報酬もだいぶ自信を持って渡せる内容になった

でも、せっかくのみんなのやる気や能力が、如何なく発揮できるだけの現場になっているとは到底言えなかった

元々は居抜き物件で、自分一人が製造できる範囲という想定で始めた店だったから、何度も何度も機材の配置替えや新規購入は図ってきたものの、10年目にして今の状況ではすでに限界なのは明らかだった

自分を含めて、全員が全力を出せる現場

それを念頭に、10月から一人でひたすら図面を書いた

何度も何度も書き直し、丸1ヶ月かけて完成させた

物理的な限界、金銭面での限界もあるため、全てが完全な理想通りとはもちろんならなかったが、自分なりに納得のいく形に描けた

あとは内装工事の手筈と、機材メーカーの業者さんとの細かいやり取りを進め、年明けの着工に臨むのみ

クリスマスをしっかり乗り切って、工事までのいい流れを作りたかった

コロナでの入店人数制限や、混雑緩和のための事前精算のお願いなど、悩ましい課題が多かったが、とにかく「全てのクオリティを下げないで結果を出す」ということにこだわりたかったので、クリスマス本番の24日・25日は完全に予約の受け渡しのみの営業にした

予約も昨年の実績と同等の数に達した時点で受付終了にした

多くの事業者が前年対比アップを目標に必死に頑張る中、昨年と同じ数を品質を落とさず、接客応対も一切不備なくやり切る

毎年のうちのお店の目標は、売上向上ではなく、ノーミスを目指すこと

そのために全力でやれば、結果は後から付いてくる、はず

九二四四という洋菓子店は、10年かけてそれを見出して体現してきたお店だ、と言えるのではないかと思う

それを胸を張って言えるくらい、俺は金に執着せずに、お店を作り、人を作ることに時間を費やしてきた

そして、コロナ禍のクリスマス商戦は、ほぼノーミスの内容と、一昨年の実績とほぼ同じ程度で、なんとか終えることができた

今年はとにかく不安だらけだったので、いつも以上にホッとした

クリスマス明けの26日・27日が土日だったため、初めて27日までクリスマスケーキを並べた

全てが終わって本当にやっと気持ちが楽になった12月28日

家でゆっくり過ごしていたところに、電話で連絡が入った

訃報だった

菓子屋のオーナーパティシエの先輩として、宮城県洋菓子協会の役員として、そして飲み仲間として仲良くさせていただいてた、ラ・ポルトの菅原さん

就寝中の心筋梗塞だったと聞いた

悲しくて、悔しくて、信じられなくて、涙が止まらなかった

何をどうしていいのかもわからなくなって、娘と買い物に出かけていた嫁にだけメールで伝えた

菅原さんとの関係をこれまでにちゃんと話していたから、嫁はすぐに俺を心配して帰ってきてくれた

本当に大事な先輩だった

人当たりは優しく、仕事には厳しく、それでいて、業界をもっと良くしたいんですなんてことを語る俺に、自分で良ければ力になりたいと、いつも支えてくれた

菅原さんとは、付き合いでいえばそんなに昔からではない

でも、今までの俺と、これからの業界にとっては本当に必要な方だった

菅原さんとのことは、また別の機会に全部書いておきたい

これからの俺たちにも、若い子たちにも、必ず必要ならことがたくさんあるから

知らせを聞いた日は、枯れるまで泣いた

次の日は朝から仕事だったが、全く仕事にならなかった

枯れ果てたはずの涙が、まだまだ出てきた

その翌日がお別れの会だった

もうこのまま泣き続けて仕事にも何にも手を付けられないでいることを、菅原さんは望んでいないはずだと自分に言い聞かせ、最後に菅原さんとしっかり会って、ちゃんと踏ん切りをつけてこようと思った

2日間、泣くだけ泣いてパンパンに腫れた目で会館に着いた

奥様とお会いするのは久しぶりだったが、目が合った瞬間、お互いに号泣してしまった

それは、残念な気持ちと悲しい気持ちと、何よりも悔しさの気持ちから溢れたものだった

奥様は気丈に振る舞いながら「本当に出不精で、パティシエの方々ともずっと交流がなかった人だったんですが、邦義さんと会って、いろんな集まりに誘っていただいて、本当に楽しそうにしてました。ありがとうございました」と言ってくださった

俺は言葉が出なかった

俺も菅原さんとこれからのことを話していて楽しかった

そしてまさにこれからもっとこうしていきたい、こうだったらいいですね、そんな話しで酒が進んでいた

一緒に叶えたい未来があった

一緒に見たい景色があった

もっと一緒に飲みたかった

51歳は早すぎですよ

きれいな顔で眠っている菅原さんの前で、しばらく泣き崩れて動けなかった

これ、教えてもらっていいですか?
これってどう思います?
俺で何か力になれることあれば遠慮なく言ってください

若輩で未熟な俺に、いつも丁寧で、優しく、物腰柔らかい態度で、こんな俺なのに、本当に頼りにしてくださった先輩

ぐしゃぐしゃに泣いて、やっとの思いで気持ちを落ち着けて外に出ると

俺と同じように目がパンパンの土田さんがいた

何も語らずとも、同じ2日間を過ごしていたことがわかった

同じく菓子屋仲間で、飲み仲間で、しかも菅原さんと土田さんは歳も1つしか違わないから、土田さんとしては俺よりも近くに感じていた存在だったと思う

いつも、週1か週2で飲んでる土田さんと池田さんと俺の3人に、2〜3ヶ月に1回くらい菅原さんも加わるというペースだった

本当に1ヶ月ちょっと前に4人で飲んで、楽しく今後のことについて話して盛り上がっていたばかりだった

けれど、土田さんも俺も経営者として、親として、泣いてばかりで止まってはいられない

ここで踏ん切りをつけて、菅原さんにちゃんと胸張って報告できるような生き方をしようと、そして、お互い体に気をつけて頑張ろうと話して別れた

年明け4日から改装工事を控えていたので、今年は初めて正月に営業した

元旦・2日・3日まで営業の予定だったので、しっかり仕事をして気持ちを立て直そうと決めた

年末の百貨店のスイーツおせちもスタッフ全員で力を合わせて完成し、年末年始もしっかりとやり遂げた

そして、2週間という長い休業に入った初日の1月4日

創君が亡くなったと大将から連絡があった

もう、何がどうなっているのか、どうすればいいのか、何を言えばいいのか、全然わからなかった

ただ、菅原さんのことを必死で受け止めて過ごしていた数日があったからか、知らせを聞いて俺はすぐに、自分の感情よりも大将のことが心配になった

菅原さんの時の嫁が俺にそうだったように

より近い関係、親しい関係、それよりもっと濃い関係の人の心情をケアしなければ、という心の動きがあった

結局、話しを聞くくらいしか支えにはなれないのだけれど、何か困ったことがあったらすぐに連絡してほしい、できることであれば力を貸すから、という姿勢で支えるしかない

と思いながらも、まだ菅原さんへの思いで力が入らなかった俺は、毎日を騙し騙し過ごしていた

改装工事は、短い工期の中、了君が1日も休まず本気でやってくれた

毎日現場で明るくやってくれたことのも助かった

内装工事が終わって、オーブンやミキサーなどの設置が完了して、いざオープンに向けて製造開始するぞ、という1月14日まで、本当に精神的に立ち直れていなかった

このままでは本当にダメになる

そう思って、スタッフに自分の周りで起きたこと、どう思って何を考えたか、落ち着いていない気持ちも、まとまっていない考えも、全部隠さずに話した

途中、涙ぐんでしまったけど、恥ずかしいけれど、弱っているから支えてほしいとお願いした

そうしてなんとかリニューアルオープンに漕ぎ着けた

まだ騙し騙しなんとか一つずつこなしている状態に変わりはないが、周りの理解と協力を得て、少しずつ立ち直ってきているのは感じる

先日は久しぶりに土田さんと池田さんと3人で飲んだ

土田さんが先にお店に着いていて、俺が2番目だった

遅れて池田さんが来て、飲み物を注文しようとすると、土田さんがこう言った

「今日は菅原さんも一緒に飲むっていう形でいいかい?」

テーブルには4人分の用意があった

菅原さんのビールも注文して、俺たちは4人で飲んだ

俺がアニキと慕う土田さんという人は、そういうハートの人だ

俺も、菅原さんとのことを形として残したいという気持ちから、俺らしい形が思い浮かんだので、これは是非土田さんとやりたいと思い話したのだが、予想通り、二つ返事で快諾してくれた

少しずつ、本当に少しずつだけど、人は支え合ってその傷を癒やして、乗り越えていく

時に果てしないように感じてしまうことも、時に不条理に感じることも、時に怒りがおさまらないようなこともある

それでも、命ある限り、支えて、支えられて、一緒に生きていくしかない

俺は明日で43歳になるそうで

明日は終日仕事で一杯の予定なので、前日の今日、スタッフたちに全て任せて、丸一日家族で過ごした

先のことは全くわからないけど、どこまでやったって後悔は残るのかもしれないけど、どんな時も、人を思い、人と支え合って、命を燃やして生きるしかない

何もまとまらないまま次のステージに向かうけど、自分にとっての一つの区切りにして、前に進みたい

いいなと思ったら応援しよう!