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私の2022年
44年生きてきて、今年は精神的に一番キツい年だった。
あと2週間あるが、この圧迫感はまだ残りそうだ。
肉体的に一番キツかったのは、間違いなく5年前に心臓の手術を受けた年だ。
だが、不思議なもので、キツかったという記憶は残っているが、程度は時間と共に忘れかけている。
決して比べるものではないのは分かっているが、精神的なダメージはいつまでも残るという点でもタチが悪いと感じる。
子供の頃から自他共に認めるほど自己中心性が強かったので、どんな壁にぶつかっても、苛立ったり、知らないフリをしたり、同情を買うために必要以上に落ち込んでみせたりということはあったが、死にたいとは思ったことは一度もなかった。
シンドイと思うことは確かに何度もあったけれど、娘のことを頭に思い浮かべれば、一瞬で「やるしかねぇ」に変換できた。
それが今年はなかなかそうもいかないことが多かった。
なんか、もういいかなぁ
そんなことをふと思う時間が何度かあった。
損とか得とか、冷静に考えて、とか、守るものが云々とか、頭で考える前に、心がどうにも疲れてしまって、救いようがなかった。
そしてそれは今も続いていて、おそらくまだしばらく続く見通しだ。
かつての自己中で適当だった私の人生は、心臓の手術を受けてからまるで価値観が変わり、徐々にではあるが「自分が自分が」という毒は薄まってきていた。
手垢のついた表現だが、生きてる、というより生かされているという思いが、実感としてあった。
そしてそれは時間と共に強くなっている。
すると、あまり以前まで考えたことがなかった「生きること」について、俄然興味が沸いてくる。
そして同時に「死ぬこと」についても考えることになる。
それらの意味を考えれば考えるほど、「やっぱりわからない」という正解に辿り着くとともに、なんとなく畏れも曖昧になってくる。
私には、信仰上、厄年という考え方がない。
(とはいえそれは自分で選び抜いた唯一絶対に譲れない信仰というものではないので、今さらそこに大いなる救いを求めてもいないのだが…。)
おそらく周りの人に今年の私に起きたことの全てを話せば、大抵の人は「厄年?」「そういうのが回ってくる歳だよね」というだろう。
そっか、大変だったね。
と言ってくれるだけありがたいものだ。
でも、そんな話しは何十億とあるのだ。
聞いてくれる人にも過去にそれに近いようなことがあったかもしれないし、これからもっと大変なことがあるかもしれないし、大変だったことを比べることはできないし、比べたって意味ないし。
答えは、まだここにはない。
私が選んで掴んだものが、後から答えになる。
一つ一つのことが、今後どう決着するのかは、わからない。
わからないから、「どうするか」という思考から浮かべるテクニカルな行動よりも前に、あらためて「どう生きるか」という土台の部分をもう一度しっかり見つめ直したい。
もういいかなぁ、から、まいっか、への緩やかな移行を来年は果たしたい。
まだもうちょっと、生きることをあがきたい。