娘を想う。
うちの娘はいくつになるのかな。
娘を思い出すたびに頭の中で指折り数える。
その頻度が少なくなっていく中で、ますます答えが曖昧になる。
今日は娘の命日だ。
あの年、長女は5歳になっていた。
5歳の10月。
じゃあ1○歳になるのか。
いつもそんな計算式。
ごめん。
何故か西暦で覚えられない。
毎年いくつになったかなって考えている。
日々に追われて、大変だったり楽しいこともあったりしながら過ごすうちに私の想いは薄まってしまったのだろうか。
娘を想う時間は年々減って、命日が近づいたことを金木犀の香りで思い出す。
今年は花が少なかったのだろうか、ほのかに香ったらすぐに時期が終わってしまっていた。
薄情な私の心を象徴するような今年の秋だった。
仕事が終わった。
これから毎年恒例の娘の誕生日のケーキを買いに行く予定。
どこに?どこで?
仕事の頭から切り替えられずに放心する。
この日を、こんな気持ちで過ごすことに罪悪感を覚えて、これまでのように「ありがとう」の気持ちで満たすことができない。
それだけ、今年、娘を想う事が出来ていなかった。
その後悔。
日に日に時間薬が効いて辛い気持ちが薄れていく。それは良い事だと思うし、そうあるべき、その方が娘も嬉しいんじゃないか、と考えてきた。
けれど、この、私の薄情さは、そういうことではない気がしている。
単純にいつも忘れてる。
蔑ろにしていたように、感じてる。
今年はどうしたのだろう。
この日をあたたかい気持ちで迎えられなかった。
娘よ、ごめんなさい。
ここに後悔を綴ります。
変わっていく自分を止められず、新しい日々をひたすらに泳ぐあいだに、色んなものを置いてきてしまった。
でも、取りに戻る事が出来ない。
きっと私は変わってしまった自分を元に戻せない。
いつも忘れていないよ、なんて言えない。
忘れてごめん。
こんな母親でごめん。
変われない私でごめん。
子供たちの存在が大切なことは変わっていないから。
今でもあなたたちの存在から得られたものが私を助けてくれている。宝物。
私の血や肉となって、今の私を生かし活かし続けている。
本当にありがとう。
いつか、全ての意味がわかる日が来るかもしれない。
その日が来た時は、私も骨になって一緒のお墓に入りましょう。
ずっと一緒にいられるように。
変わらず愛しています。
その気持ちをここに残しておきます。
また来年お話ししましょう。