ヴェネツィアの旅人
図書館の閲覧席に腰を下ろしたウサギは、隣で夢中になって本を読んでいるカメを見つめ、小さく微笑んだ。音を立てないように気を配っていると、ふとカメが顔を上げた。
「ヴェネツィアに行ってみたいな」
カメのひと言に、ウサギは少し驚きながら聞き返した。「急にどうしたの?」 「この本の舞台がヴェネツィアなんだ」カメの目には、夢見るような輝きが宿っていた。
「この『ヴェニスの商人』だけじゃなくて、シェイクスピアの物語にはヴェネツィアが出てくる。だから、どんな場所なのか、自分の目で確かめたくなったんだ」カメは、熱を帯びた瞳で夢見るように語った。
「ヴェネツィアは、すごく素敵な場所だったわ。ゴンドラに揺られて、いくつもの橋をくぐっていくの。ガス燈の光がサンマルコ広場をほんのり街を照らしていてね、まるで映画のワンシーンみたいだったわ」
その日の午後、ウサギは少し羨ましそうに話を聞いていたカメを誘い、SOMPO美術館へと足を運んだ。
「ヴェネツィアって、魚の形をした島なんだね。しかも、120もの島が400の橋でつながっているなんて!」いつもは冷静なカメが、珍しく驚きの表情を浮かべている。
「車も自転車も街に入れないなんて、想像つかないよ!」カメは声を弾ませた。
「そうだったかしら…。ゴンドラには乗ったけれど、それ以外はずっと走り回っていた気がするわ…」ウサギは、ふと遠い記憶をたどるように呟いた。
「ここは18世紀にも人気だったんだね。イギリスの貴族たちは、旅の記念に『ヴェドゥータ』という精密画を買って帰ったらしいよ。君も絵葉書とか買ってきたのかな?」
「私ね、その場で記憶に焼き付けるタイプなの。過去を振り返ることなんて、あんまりないの。でも…こうして絵を眺めていると、もう一度ヴェネツィアに行きたいわ」
「いつか連れていってね」
二人並んでゴンドラに揺られる光景を、頭の中にそっと描くと、美術館をあとにした。