疑うこと
私は疑うことをあまりにも
知らなかった。
別に、ピュアとかそういうことじゃない
普通に生きてきて、今まで疑う相手といえば見るからに怪しい人とか、人を騙すような態度をわかりやすく取る人とか、そういう人への警戒心は凄いんだけど、普段関わっている、先輩とか、後輩とか、友達とか、そういう身近な人への、警戒心がきっと普通に比べると大部分で欠落している。
それに気付いたのは本当に最近で、大人になって一回りくらいしてから。
そんなに世の中疑ったり、信用しなかったり、上っ面で関わってるなんて思わなかったし、思いたくなかった。
私は昔から竹を割ったような性格だと言われ続けてきた。
自分のことはなんとなく分かってたし、そう言われるのも理解しているつもりだったけど、自分が思っている以上だった。
私は人を疑うということを知らなかった。
人が口にする言葉は少なからず全て本心だと思って生きてきてしまっていた。
こういうとなんか改めてアホだな。
だけど自分自身が、自分の中にない感情で物事を話せないから、
例えば似合わない髪型を「似合ってる」なんて嘘でもいえないし、美味しくない食べ物に嘘でも「美味しい」という言葉は使えなかったり、全然嫌いな人を煽てることもできない。
そもそもそういう時は何も口にしない。
言葉にしない。
だから、マイナスなことを言葉にすることは基本的に本心をオブラートに包むか、ほんとに思っていることしかいえない。
だから初めて会って、興味のない人への話は当たり障りのない会話になる。
例えば旅行の話になったら、私の場合やっぱり本当に行きたい国の話になる。そこで話がうまく噛み合えば盛り上がった風になる。
でもこれは私の中で本心で行きたい国の話をしているから当たり前だ。
行きたくもない国の話なんてしたくないし。興味もないし、行きたくない国の話が出たら、そこで私が取る行動はその国を知ろうとする。というのも知らないから興味がないだけで、知れば興味が湧くかもしれないから。だから、興味のない話題が上がったらその人に聞く。
そこから自分が興味が持てる、拾える話題を探していく。そうすると案外みつかるもんだ。
そうしたら、私の中から出てくる言葉が本心に変わっていく。
そうやってきたから、
たまに相手から褒められたり煽てられると素直にそれを受け取ってしまう。喜んでしまう。
それがもしただの社交辞令とか、煽てるだけのための口から出任せだったら…なんて考えたことなかったんだけど。
でもここ何年かで、
平気で嘘をつく人、
平気で人を裏切る人、自分の都合の良いように人へ話をする人、そういう人を目の当たりにして、やっとこさ人を疑う、ということを覚えた。
だから、たまに褒められたりすると、これは魔に受けて喜んでいいものか、社交辞令なのか、考えるようになった。
でもやっぱり思う。
その疑心暗鬼っている?!
煽てられて気分良くなって、そこまででも別にいいじゃない。相手が本心だろうがなかろうが、いいことならそれを魔に受けて何が悪い?
なんて、も思う。
かと言って魔に受けて浮かれポンチも困りもんかもしれないけどね。
きっともう、何事もバランス。
いい塩梅が大事なのだろう。
疑い過ぎても良くないし、
疑わな過ぎても身を滅ぼす可能性を生む。
難しいが、
やっぱり私は私に忠実に生きたい。