自分のことが嫌いになるとき

自己嫌悪に陥ることは残念ながらよくありますが、私の場合、例えばそれは、「でしゃばったなと思った時」です。
でしゃばるにもいろいろあるけれど、普段人前に出たり人前で話すことは徹底的にでも避けたいのに、時々スッと前に出てしまうことがあり、その後で「でしゃばった!」と自己嫌悪に陥ります。

ところでなぜ「でしゃばる自分」が嫌なのか。でしゃばってはいけない、と小さい頃に教えられてきたのだと思います。
いけない、というより、みっともないとか恥ずかしいというニュアンスだと思います。
地方あるあるなのか、女の子あるあるなのか。大人しくしなさい、人に譲りなさい、自分から手を挙げるもんじゃありません、なんてことは普通に言われてきました。
学級委員とか、生徒会長とか、部長とか、なんでも何かの「代表」になるとか、前に出てパフォーマンスをする担当になるとか、そういうことがすんなりできる人は、ただただすごいなあと思いながら生きてきました。

そういうことが、私もやりたかった、という記憶はないのですが、どこかの何かのタイミングで、これはやってみたいだとか、これならやれそうだとか、そういうチャンスはあったのかもしれません。
ただそれを掴もうとすると、「でしゃばるな」の呪いが背後にやってきて、尻込みしてしまう、あるいは、掴んだ後で「でしゃばったな」と不快な闇に落とされるのです。

仕事はもちろん、趣味でも、演奏するならソロを担当するとか。
基本的にあがり症で人前に出るのは苦手だから、全部何でもやりたいわけではないけど、つい前に出てしまう時は、少しやってみたいな、やってもいいかな、と、実は私の心の奥底では思っていたのかもしれない。
それなら、やってもいいじゃないか。でしゃばりでも、いいじゃないか。
そう言葉にすると、少しだけ、呪いが晴れる気がします。

30代半ばだと、年上や立場が上の人に譲った方が良かったのかなとか、逆に年下に任せた方が良かったのかなとか、両方考えてしまって余計に自分の本心がわからない。

自分がやりたいことが、他の誰かもやりたいとは限らないし、誰がやったとてそれぞれの結果になるわけで、誰がやっても大差ないかもしれない。
他の人のことは、考えても思いどおりにはならないから、まずは自分のやりたいこと、やりたくないことに素直に従ってみることが第一歩なのかもしれない。
かげで何か言われることを恐れてもいるけれど、それもそれでコントロールできるものではない。自分がやりたかったなら、仕方ない、それを手に入れただけだから。

久しぶりに、お腹の辺りがギュッと締め付けられる自己嫌悪を経験しましたが、「久しぶり」というのは何か自分が変化の過程にいるような気もします。
自己嫌悪や自己否定をしなくなったからこそ、久しぶりだと感じた感覚があるのです。
私はもうしばらく、「でしゃばる」問題と向き合う必要がありそうです。

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