音楽に命かけられますか?
いつも生徒には言ってるんですが。
音楽理論は日本語より簡単です。
スマホの使い方より簡単です。
ではなぜ難しいと思うのか?
根本は「ほんとに使いたいと思うか?」だったり「使わないと生活に支障をきたすから」だったりするのではないでしょうか?
音楽理論は知らなくても生きていけます。
ギターを弾く、ということも同じです。
ギターなんか弾けなくても生きていける、と普通は思うでしょう。
ほんとにそうなんでしょうか?
それは誰が決めるか?って自分ですよね?
もしあなたが代々ギターを弾く家系に生まれて、北斗神拳のようにギターを代々上手く弾けるとか音楽理論がわかるものだけが生き残れ、あとはそれを継ぐものの犠牲になるかそれを止めざるをえなかったとしたら同じように思うんでしょうか?
できるということはイコール生き残れるということになります。
もしそうだとしたらもっと必死になるのではないでしょうか?
ギターとパンとあってどっちか一つを取れ!と言われたらみんなこぞってパンを取るでしょう。
それが生きるということです。
では何のために生きるのか?
生きている目的や甲斐は何なのか?
私はそれがギターでありたい。
みなさんそう思うかもしれない。
でもほんとにそう思ってますか?
つい他のことに心を奪われていませんか?
スマホは自分で使いたいと思うから説明書なんかみなくても勝手に触って使い方を覚える。
日本語は一人では生きていけないから誰かとの意思疎通の手段として見よう見まねで覚えていく。
これと同じにギターを考えることができたらもっと必死に練習するんじゃないでしょうか?
音楽理論はそれだけでは意味がありません。
でも日本語をきちんと喋る、とかほんとの言葉の意味を考えるとかそういう時には文法が必要ですよね?
文法知らなくても日本語はしゃべれます。
でも日本語は他の言語に比べると難しい。
ななびさんの記事に書かれていましたが、日本語で3匹の犬は英語ではthree dogs、3頭の熊はthree bears。
英語では3匹も3頭も同じthreeです。
これをちゃんと使いわけようとすると文法とか細かいことを知らないとダメでしょう。
これを全部3にしてしまうから日本語が乱れていってるわけです。
要は3なら何でもいいと思ってる。
日本語の英語化です。
逆に英語独特の表現もあります。
こういうのが一番他の言語を第一言語とする人からすると難しい。
これはある程度文法を覚えたり、もしくはどっぷりと骨を埋める覚悟でその国に住んでその土地の水を飲んでその土地の食べ物を食べないと覚えられないことだと思います。
これは音楽と似てますね。
ロックに溢れた家庭に育ち、生まれて子守唄代わりにジミヘンがかかってるうちに生まれればある程度感覚が育っていくと思います。
それならあまり理論とかは必要ないかもしれない。
ロックの方法論がそのまま生活の一部になる。
これなら理屈はあまり必要ないでしょう。
でも普通はそうじゃない。
ある程度歳をとって思春期以降にロックを聴き始める。
それだとロックをちゃんとできるようにしようと思うとある程度「理屈」が必要になります。
理屈を覚えれば「こういう時はこうする」という方法がわかりますから。
これが音楽理論です。
機材の事、ギターの事も音楽のために必要なツールだとしたら音楽理論も同じツール。
ではなぜ理論はみんな覚えようにしないのか?
機材はお金出せば買えるからじゃないですか?
同じ機材でも私は自分なりに手を入れたものが好き。
そこで初めて自分のものになる気がします。
理論も私には同じものです。
わからなければ死んでしまうとか、これが弾けないと死んでしまうという心境に自分を追い込めるか?ではないですか?
それができなくてもいい、と思ってしまうのは甘えです。
あ、間違わないでくださいね。
みんながそうするべきだ、ということではありません。
人の生き方は一つじゃないですから。
でも逆にいうとギターに対して、理論に対してそう思うことができる人がそれを生活として生きていくことができる。
何ができるから、ではないと思います。
要は音楽に対してどれだけ真剣に向き合えるか?です。
これはプロになるとかそういうことではないです。
音楽が自分にとって何なのか?
プロはある程度の技術が求められます。
ギターが上手いとか曲が作れるとか。
専門職ですから。
いわゆる職人です。
そう考えると音楽学校に来る人はけっこう甘いですよ。
音楽を命だと思ってるようにはあまり見えない。
カッコいいからとか好きだからとかそんなことでやってる。
それでできるなら世界中ミュージシャンだらけですよ。
命をかけるのにお金は要らない。
いつからという時期も関係ない。
音楽に命かけてみませんか?