ぼくは

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

このエッセイは、筆者のブレイディみかこ氏が彼女の息子の日常について書き綴ったものである。

ブレイディみかこ氏は保育士兼ライターで、イギリスの南端のブライトンという地域に、アイルランド人の夫とともに住んでいる。彼女には一人の息子がおり、彼は冷静沈着で真面目な性格のため、通っていた有名カトリック小学校では生徒会長も務めたほどだった。

そんな彼のほのぼのとした生活は中学入学によって一変する。

彼は、有名カトリック小学校のほとんどの生徒が行くような、市のランキング1位のカトリック中学には入学せず、近所の元底辺中学に入学することになったのだ。

そんな元底辺中学の生徒のほとんどは白人労働者階級の子供達であり、以前の荒れていた時期に比べると、新しい校長の方針である、「音楽部」の勢力的な活動と、落ちこぼれを作らない風通しの良い教育環境づくりによって市のランキングの真ん中あたりまで浮上していた。

しかし白人労働者階級の子供が多いために、アジア人や移民などは数が圧倒的に少ないため、以前のカトリック小学校に比べたら差別を受けることも多く、貧しい生徒の数も極めて多い。

そんな中で彼は数々の壁にぶち当たり、経済格差や人種の違い、性別など、多様な個性と交わることになる。


と、ここまでがざっくばらんなあらすじだが、この物語は私の心持ちを大きく変えてしまった。

日本も随分と海外からの労働者や住民が増えたが、イギリスはさらに多民族だ。

ロンドンはもともとインドなどの植民地からの労働者が多く、近年もEU圏内の東ヨーロッパなどの国からの移民が増え、EU離脱の住民投票が僅差ながら離脱派優勢となった。

そしてつい先日、ついに3年の時を経て離脱する運びとなったのだ。
テイクバックコントロール”というやつだ。

私も1年ほどイギリスに住んだことがあるのだが、日本人や中国人などのアジア人、EU圏内の国からやってきた労働者が日本よりも圧倒的に多いように感じた。

実際に友達になったのもイギリス人、パキスタン人やスウェーデン人、中国人、とヴァラエティに富んでいた。

そんなわけでイギリスでは多様性を理解するための教育が盛んだ。

この本の中にも“エンパシー”という言葉が度々登場する。

エンパシーとは、「他人の靴を履くこと」であると息子は答える。

シンパシーと似た意味のように思われるが、シンパシーは「誰かを可哀想だと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと」と定義され、一方エンパシーとは、「他人の感情や経験などを理解する能力」と定義される。

つまり、エンパシーとは“能力”のことなのである。

シンパシーは自然に湧き出す共感や哀れみ、エンパシーは自分とは違う考え、立場の人たちが何を考えているのか、想像して理解するの能力なのである。

なるほど、全然違う。
後者は知識によって得る能力であるから、無知な人には備えられないものだ。

本書の中で一番心に残っている著者の言葉がある。

彼女の息子が人種差別的なクラスメイトに対して憤りって、「彼はバカなのか」尋ねたときの返答で、

「いや、頭が悪いってことと無知ってことは違うから。知らないことは、知るときが来れば、その人は無知ではなくなる」

というものである。
無知は罪なんだろうか。
無知であることによって、エンパシーできずに人を傷つけてしまう人は本当に多いように思う。

特にこの日本でも最近海外の方が増えて、排他的な思想を持った、特に年配の方は私の周りに多い。

無知である人に、こんな考えもある、こんな世界もある、と教えることが大切だ。

多様性の時代。
性別もLGBTのみならず、選択肢がとても多い。
一つの国にいろんな国の人がいる。
いろんな国の親から生まれた子供がいる。
貧しい人も、大富豪もいる。

多様性は大変だ。
みんな同じだと楽だ。

しかし楽ばっかしていると無知になる。
多様性の中から生まれる、人を思いやる力、人のことを尊重し合う力が、人々を無知にはさせてくれないのだ。


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