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宗教について思う 21 ともに背負うということ 韓国と北朝鮮の首脳会談のニュースより

宗教について思う 21 ともに背負うということ 韓国と北朝鮮の首脳会談のニュースより

韓国と北朝鮮の首脳が会談したというニュースを
見ました。

世界が平和や和解という方向へ向かうことは

大変喜ばしいことであると思います。

でも、私は、

そのニュースを見ていて、

私はひとりの人のことを思い出したのです。

それは、以前、

北朝鮮のスパイとして航空機を爆破したとされる

金賢姫さんです。

私は金賢姫さんという人が悪人であるとは思いません。

そうせざるを得なかったのでしょう。

(被害者の方のことを考えると、
被害者ではない私がそのように言うのは本当に
申し訳ないのですが。)

金賢姫さんがそれをしたのには、

教育もあったと思いますが、

もしその任務を断ったら、

家族は殺されるか、

殺されるよりつらい目にあうかのどちらかであった
はずだからです。

その状況で任務を断ることのできる人は

いるでしょうか?

私大変難しいことであるだろうと思います。

このことを考えると、

私は、

私たちが罪を犯すとき、

そこには避けられない運命のようなものが
あるのではないか?

と感じるのです。

自分の運命を完全に思い通りにできるという人は

誰もいません。

人は罪を犯すとき、

犯したくなくても犯さざるをえないのでしょう。

そして、

罪を法律に規定された罪ではなく、

道徳に反することを罪というなら、

私たちの誰もが罪を犯していると思います。

私は金賢姫さんという人は、

韓国政府に許されて普通の生活をするように
なってからも

とてもつらかっただろうと思います。

でも私がひとつよかったなと思うのは、

金賢姫さんが韓国でクリスチャンとなったことです。

私は特定の宗教を持っていませんし、

別に救われるのにキリスト教である必要は
ないと思いますが、

金賢姫さんは、

宗教によって罪の重さから救われたのではないかと

思います。

逆に、宗教以外のものが

金賢姫さんの心を救えたとは思えないのです。

私は現代、ここに宗教のひとつの役割を見るのです。

人間は罪を犯します。

私たちは罪を犯したくなくても、

犯すときは罪を犯さざるをえないのだろうと思います。

おそらく自分の意志ではどうしようもないでしょう。

そこに宗教の救済が必要となる。

もし、

私たちが、

自分自身の力で善であることができるなら、

宗教はいりません。

でも、

私たちは誰も、

自分自身の力では、

本当には善人であることができないから

宗教がいるのではないでしょうか?

そのように考えると、

現代、

宗教が存在意義のあるものであるためには、

宗教者は昔、

司法の機能を担っていた時代のように、

「こうしなさい。」

「ああしなさい。」と善を命令し裁くだけの人で
あってはならない。

逆に、

目の前の人が罪を犯したなら、

(それを裁くのではなく、)

その罪を自分自身の罪として、

ともに引き受け背負ってあげる人でなくてはならない

のだと思います。

悪人を裁くだけなら司法や道徳といった、

世俗の機能によってでも充分にできることです。

世俗の機能にできないのは許すことであるからです*。

*(聖書のなかにも、

「許すことは神だけができることである。
人にはできないことである。」

というくだりがあります。)

司法の機能が充実し、

教育が行き届いた現代、

宗教がまだ存在意義のあるものであるためには、

宗教者は、

過去のどの時代の宗教者たちよりも、

より強く愛や許しを発揮しなくてはならなくなって

いるのではないでしょうか?

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