「自己肯定感」の話をしよう
ある日、昔のMAYAのことを思い出しました。
MAYAは、他人と自分を比べる考えの癖がありました。隣で誰かが褒められるだけで、すぐに嫉妬して、自分に自信が無くなる。人の良いところを認められない汚れた心を持って人に接している自分に対しても、失望🫤
悪い自分から現実逃避したい思いと、少しでも残っている善良な自分を生かしたい思いで、色々やりました。漫画を読んでみたり、アイドルに夢中になってみたり、勉強してみたり、部活に熱中してみたり、友達と遊んでみたり、旅行に行ってみたり、本を読んでみたり...
そういう中で、その都度経験したことで今のMAYAが存在するので、それらは全て無駄ではなかったのですが、何をやっても結局は自分と誰かを比較してしまう問題は解決しませんでした。
夜になってふと、自分の存在の意味を考えながら、涙で枕を濡らしていたことを思い出します😱
こうして、誰かと比較するところから始まり、「自己肯定感」というものはみるみるうちに擦り減っていったようです🌊こういう経験、誰しもあるのかな...?
今も自分と向き合うべきことは多いけれども、以前の自分と比べたら「自己肯定感」を回復させつつあるMAYAが、これまでのこととを少しばかり考えてみました。
専門家ではないので、一般ピーポーの私的見解であり、一個人の世界の捉え方です。
⭐️そもそも「自己肯定感」って?
文字通り、自己を肯定する感覚ですね。自己否定感の反対です。
一般的には、こんな風に言われているようです。勉強になります✏️📖
ここからは、MAYAの持論。
人は、人として生きるためには、まずは、食べることや寝ることなど、生命維持のための活動が必要です。
そしてまた、人は「心」が、この世に存在できる状態でないと生きていけません。
心がこの世に存在できる状態にするためには...この世に存在する意味を見出すことが必要です。
つまり...
・私はどうしてこの世に存在しているのか?
・私はこの人生で何を成し遂げるべきなのか?
・私はこの世に存在していていいのか?
といった、問いの答えです。
その答えを何らかの形で見出すことが、「自己肯定感」を高める鍵だと思います。
心で「この世に生きている意味がない」「死にたい」と思ったら、いくら、生命維持活動に不便がなかったとしても、人は、命を絶つことができます。
これは、動物との大きな違いです。動物はとても尊いし、共存すべきですが、人間は動物とは違う生き物です。
やっぱり、この世に生まれたら、どんなに短くても長くても、大変でも、人生を全うする方がいいと思います。なので、心健やかに生きるためにも、「自己肯定感」は、誰もが高ければ高いほどいいものだと、MAYAは思います。
まあ、そもそも「自己肯定感が高い低い」という認識自体が存在しないくらい、みんなが自分も相手もを肯定できるのが理想世界なんじゃないかな〜と思いますが...
一度この世に生まれてしまった概念と言葉なので、仕方がないですね...
⭐️「自己肯定感」はどこで失われるのか?
ところで!自己の肯定は、他人を否定することで得られる場合もあります😲
他人と自分を比べてみて、自分が優れていればちょっとした自己肯定になります。例えば、「私はあの子よりも可愛い。そんなあの子も存在している。だから私はあの子よりも存在価値がある」とかね。
ただ、世の中には上には上がいて、他人との比較だけでは、「私は最強」にはなれません。一つの分野で最強になっても他の分野があるし、たとえ比較することで一番上に行っても、頂上には「高慢」の2文字が待っているだけです😂
競争はある程度必要かもしれませんが、自分のアイデンティティや性格については、他人と比較はしない方が良さそうですね。
そもそも、生まれ持っているものが違うのだから。理科の実験でも同じ環境同じ条件でなければ、得られる結果は真実ではありません。
小学生の頃は、「比べて優劣をつける」っていうことは、あまりなったような気がします。
確かに、あの子は自分より可愛い、勉強ができる、とか、そういう比べ方はあったかもしれません。でも、それ故に自分の存在そのものが「否定される」ことはありませんでした。せいぜい、勉強が嫌い!あの子が嫌い!になる程度で、私嫌い!みたいなところまでいかないんじゃないかな(笑)
いや、もしかしたら、時代や場所や人によって違うかも...
しかし、中学生以降、それは大きく変わりました。
過激に容姿を気にするようになって、比べ出します。部活では、上手い下手で人そのものが判断され、自分が認められればなんとなく人を見下ろすようになる。派閥ができ、お互いの悪いところを見つけることが得意になる。
他人と比べて自分が劣ると思ったら、自分の存在を誇示するために、強くなる。強いのがかっこよくなる。言葉も、手も。
自分と個性や性格を磨くことを諦めて、アイドルやアニメや漫画や映画にばかり、自分の理想世界を投影して満足する人も。
はーい、全部、MAYAです🙋♀️(笑)
比較から始まった自己否定感を拗らせてますね。しかし、MAYAも、気づかないうちに、誰かの自己を否定していた...というのは存じ上げております。
いろんなケースがあると思います。全てが比較から始まるわけではありませんが、自己否定感は、
親、友達、先輩、後輩、友達、きょうだい、先生、第三者、そういう人たちから直接受けた言葉や行動、メディアから受ける間接的なもの、そして、そこから派生する自分の認識などなど、あらゆるものの絡み合い。なのかなと。
みんな自己肯定感の失い方は違うはずなんですよね。同じ人生を生きている人はいないので。
まずは自分がどこで失ったのか、考えてみる必要がありそうです🧐
⭐️「自己肯定感」の回復
MAYAの自己肯定感の問題は、いとも容易く「神様」という存在を学ぶことによって解かれました。
もちろん、神様以外にもたくさんありましたよ!
MAYAを愛して直接肯定してくれた、全ての人たち。見えないところで、物理的にも精神的にも支援してくれた人たち...etc
そういう中で、MAYAが見つけた「最高の」答えが、神様だったわけですね〜🐣
哲学はもともと好きでしたが、宗教の世界は、あまり触れたことのない世界だったので、そこに答えがあるとは全く思いもせず、見つけられなかったんです!
MAYAが、今信じている「神様」に出会った(つまり聖書を勉強し教会に通い始めた)のは、大学4年生の時でした。
見えないものの存在は信じていました。虫が見ている世界と人間が見ている世界が違うように、人間の目には映らないだけで、存在するものはたくさんあるんだろうなって(オバケとか、カッパとか、人魚とかはそう言う類かなと)思っていたし、悪は悪、善は善で行った通りに人に報いて世界を治める神様がいたらいいなと、どこかで思っていました。
教会の人たちが信じる「神様」は、日本によくある山や水や神社に宿る神ではありません。山や水や生き物、地球、宇宙、人間までもを作った存在であり、太初から永遠に存在する、「エホバ」と呼ばれる存在です。聖書に出てくる神様ですね。(詳しく話すと長いので、また今度😂)
ちなみに、宗教を持ってみて思うことは、宗教は持っておいて損はない、ということ!それを自分が本当に「正しい」と思って信仰するならば...という条件付きで。
「どのように生きるのか」を考えることは、人間にとって非常に重要なことですから。いい宗教に出会ったら、それはラッキー⭐️宗教は結婚と同じだと言われることもあります。MAYAは非常にラッキーでした。結局、なんだって宗教になり得るんだもん。
はい、では、この「神様」がどうやって自己肯定感の回復に繋がったかという話をします。
「私がこの世に存在していていいのか?」「なぜ存在するのか?」という問いの答えを得るにあたり、「愛」という言葉がヒントになりました。
「愛されている」ことを実感することと「愛する」こと、これが人間にとってはとても大事な感覚であり、人間として生きるための本質であるということが、聖書を学ぶ中でわかりました。
だから、聖書を知らない人でもどんな人でも、人は愛されようと努力します。そして、人を愛することもまた、人の楽しみなのです。
もともと、聖書の神様が人を作られた時というのは、とても平和に、幸せに、「愛」に満ちて暮らしていました。
この「愛」は、「アガペ」と言われるものですね。
何故、愛に満ちていたかと言うと、神様は人を愛していて、人が神様を愛していたからです。
その最初の人が、アダム。神様はアダムを、とても豊かで素敵な土地「エデン」で暮らすようにさせました。アダムが植物や動物につけた名前は全部その通りになったように、アダムは神様と話すことができ、通じることができました。
しかし、しばらくして、アダムは神様との約束を破ります。お隣のエバも一緒に...
愛している人に大事な約束を破られたら、信頼関係は失われますね。絶交です。
ここから、人と神様の関係は切れ、人は神様に愛されていたことを見失うようになりました。
アダムとエバは、神様からもらった素敵な土地を追い出され、不幸な一生を終えます。アダムとエバの息子、カインとアベルは家庭内暴力の始まりです。
そして、人の中に悪が蔓延ったゆえに、その後のノアという人の時代には、神様は洪水で地を裁きます...to be continued
その歴史は、今に繋がっています...!
※ここまでの聖書の話は、MAYAの持論ではなく教会で勉強したことです。
つまり、人類を愛していた神様との関係が切れてしまった時から、そもそも誰もが神様に愛されているはずですが、そのことを感じなくなってしまったということです。
だから、人間関係に問題があると、「自分は誰にも愛されていない」と思ってしまう。みんな、愛されているのに。
そして、誰にも愛されていないという感覚は、自己肯定感を低くすることに繋がっていきます。
MAYAは、「神様」を学んで、「私は愛されている」ということを見つけました。いや、人にもたくさん愛されたんですが、それまでは「愛された」という言葉では表現できなかったんですよね。神様を学んで、「あ、これも愛だったのか〜!」と、MAYAの人生には愛が溢れていたことに気づきました。
それが、MAYAの自己肯定感の最大の回復です。
神様が人を愛することは、永久に変わりありません。なので、そこを失うことは、自分が神様を信じなくなること以外にはないでしょう。自分の信仰が一生涯続くとしたら、自己肯定感がまるっきり無くなることはありません。
自己肯定感を根本的に回復するには、まずは、神様のことを学び、神様に「愛されている」ということを知ること。
神様の愛がどのような愛なのか、神様は人間に何を願われるのかは、聖書に書いてありました。
愛が何なのか分かったら、そのように神様を信じてみて愛してみて、自分と人を愛してみればいいわけです。
神様との関係を修復したら、私に愛と平和が戻ってきます。本来あるべきだった愛に帰ればいいのです。神様と離れてしまったその道を、ある意味逆走すればいい🏃
と、MAYAは「信じて」います✌️
MAYAも聖書を学んで教会に行き始めてから、すぐに信じたわけではありません。むしろ時間をかけました😂
「そんなわけあるかい〜」「今の私には聖書の歴史は関係ないやろ〜」「うん、そういう世界観もありますね」とかとか思いながらも、続けて勉強しました。
そして、自分が、心から「正しい」と思うものを自分で選択しました。それで、今の教会⛪️にいます。
これは信仰の世界なので、誰にでも、そして今すぐに、当てはまる話ではありませんが、MAYAが見る世界における、「自己肯定感」の話でした!
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます😊
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