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勇気の哲学

勇気とは何だろう?

今年の夏、私は上高地に行き、横尾山荘という山荘に泊まった際、同室者にジャンダルムに登ることを伝えたら、「勇気がある」と言われた。
私はその「勇気」という言葉の使い方に少し驚いた。
なぜかと言うと、本当の勇気とは、例えば、クラスのみんなにいじめられている子がいたら、自分がいじめられる可能性があっても、そのいじめられている子を庇うのが本当の勇気、みたいな教えを受けてきた。しかし、良く考えてみれば、勇気の基本的な使い方としては、ジャンダルムのような難易度の高い岩山に命を賭けて登ることについて「勇気がある」と言うほうが自然である。
しかし、このいじめられている子を庇う勇気と、岩山に命の危険を冒して登る勇気の違いはなんだろう?
私はここで仮定したいが、勇気には二種類あるということだ。
ひとつは、岩山に登るような「自然に対する勇気」。
もうひとつは、いじめられっ子を庇うような「社会に対する勇気」だ。
好きな子に告白する勇気は社会に対する勇気で、屋根の上に登って仕事をする勇気は自然に対する勇気である。
では、戦場で戦う勇気はどうだろうか?
これは社会に対する勇気でありながら、自然に対する勇気でもある。
敵と戦う勇気は命を賭けるから、自然に対する勇気であり、戦争は社会関係のものだから、社会に対する勇気と言えるかも知れない。
しかし、「人を殺す勇気」というのは、勇気と言えるだろうか?
平時では重大な犯罪である。戦場では武勲であるのか?
道徳的には、「殺さない勇気」のようなものが尊称されるかもしれない。
道徳は自然的勇気を「蛮勇」としがちで、社会的勇気を本当の勇気と教えてきたような気がする。
しかし、戦争が自分の国で起こった場合、国を守るために戦うのが勇気か?それとも、「戦わない勇気」と言って、国外に亡命するのが勇気か?この場合、戦う方が勇気が要るだろう。しかし、歴史上にはもうひとつの勇気が示されていて、それはガンジーの指導した非暴力不服従運動である。敵が暴力を振るってきても、けっして暴力で仕返しはしない、しかし服従はしない、というものだ。キリスト教で言えば、「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せ」に当たるだろう。それこそが、蛮勇でもなく、社会的にも勇敢な勇気の示し方かもしれない。
しかし、普通の人はそれができないし、私もできるか自信がない。
ガンジーのようにはいかなくとも、戦わない勇気の示し方を見つけたい。

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