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統合失調症患者の自己診察を考える
私は統合失調症を患っていますが、それは医師の側から言い渡された診断名ではありませんでした。自分で調べて付けた診断名です。私がその病名を使い出したことで医師も私との診察で統合失調症という言葉を使うようになりました。しかし、統合失調症という病気は本当に存在するのでしょうか?
「学問とは物に名前を付け分類することである」と言ったのは古代ギリシャの哲学者アリストテレスです。医学は学問であるから、病気に名前を付けて分類する。診断は患者がどの病気に罹っているか医師が分類することです。しかし、私が今まで出会った統合失調症患者の症状とその重さは人それぞれで全然違うように思われました。私の症状と似ている人もいますし、まったく異質な病気ではないかと思われる人もいます。私は医師ではないので彼ら彼女らの診察はできません。しかし、当事者として主観的に自分自身をならば診察できるのではないかと思います。「主観的」とはどういうことでしょうか?その答えを考える前にその対義語である「客観的」という言葉について考えてみたいと思います。
よく「冷静になって客観的に考えなさい」というような言葉を耳にしますが、自分ではなく他者の視点から自分を見ることだと思います。当然そこには自分の視点が抜け落ちています。自分の視点は重要ではないのでしょうか?「客観的に見て私は障害者だ」と認識することにどれだけのメリットがあるのでしょうか?障害者であるという認識は回復を停滞させるものだと私は考えます。なぜなら、そう言うことで障害者らしくふるまうことになってしまいがちになるからです。そうではなくて、生活のどのような場面で障害を感じるのか、あるいはどれだけ苦しいのか、といったことが重要なのではないでしょうか?そして、そんな苦しい中にあってもどんなときに比較的楽になるのか、そういったことが重要なのではないでしょうか?つまり主観のほうが客観よりもナマの辛さに直面していると思います。私たちは障害者であることに悩んでいるわけではなく、具体的な生き辛さに悩んでいるはずだからです。
私の場合、一番苦しかった高校生の頃は、起きていて地獄、夢の中まで地獄、つまり意識があるときはいつも地獄の苦しみでした(その辛さを表現するには長い小説にでもしない限り表現できないものです。短く表現するには私の語彙力では「地獄」という比喩でしか表現できません)。そんな中で、少しだけ楽になれる瞬間がありました。スーパーマーケットやデパートの店内にドアを通って入った瞬間です。夏の場合は入ると急に涼しくなるし、スーパーは食べ物の匂いが、デパートは化粧品の匂いが突然私を包むからかもしれません。その瞬間少しだけ心が解放されたような気がしました。それは一瞬のことですが、そんな一瞬があったからこそ、生きていれば将来きっと快い精神状態を得ることができる、そう信じ、私は生きることにしがみつきました。現在ではしがみついていてよかったと思っています。あれから二十五年が経ち、このような文章が書けるくらいに回復しました。以上は私の病気を主観的に見た例です。
この例のように、当事者というものは主観的で独特な体験をたくさん持っているはずです。客観的な精神医学には回収しきれない体験です。これは学問にはなりえないかもしれません。名前を付け分類する作業がないからです。病気を主観的に見る(いや、「診る」と言ったほうがいいでしょうか?)、それを「自己診察」と名付けたいと思います。
自己診察は診断を下すことがありません。診断を下すことは自らを分類することになる、つまり客観化することになります。そこには「答え」があるように見えます。しかし、「答え」などあるはずがありません。「私は統合失調症です」そんな言葉が通用するのは今だけかもしれません。時代が違えば、「私は狂人です」と言わなければ通用しなかったかもしれません。そう考えると「私は○○です」という表現は、常に世間に向けた看板に過ぎず、本当の私を表す看板など存在しないのではないかと思われます。それは客観的に見た確かな自分など存在しないという意味で、主観的な自分だけが必ず存在しているということです。なぜなら、人間は他人になることは絶対にできないからです。自分は何者であるのか、客観的視点から見た自分は絶対に本当の自分ではないのです。
何をしているときに心は落ち着くか、あるいは快感か、あるいは幸福を感じるか、何が好きか嫌いか、そのようなことはすべて主観です。次の角を右に曲がるか左に曲がるか、ナビ無しで私たちは選択できます。角を右に曲がれば右の世界が、左に曲がれば左の世界が私たちの前に開かれます。そのように絶えずどちらに進むか考えて行くべき方角を探すことが自己診察の目的と言っていいと思います。
「私」は本来、何者でもありません。「私」を自ら分類することは、「私」を失うことではないでしょうか?
「人間は何者かになるのだ」と言う人がいるかもしれません。それには共感します。つまり、自己実現と言われているものです。しかし、「私は障害者です」、これは自己実現でしょうか?
そもそも自己実現という言葉は、現在の自己を否定する言葉です。まだ実現していないからです。では、私たちは人生の中でいつ自己を実現するのでしょうか?五十歳くらいでしょうか?それとも二十歳でしょうか?実現せずに死んだ者は虚しい人生を生きたことになるのでしょうか?私が社会福祉士の受験勉強をしていたときに疑問に思ったのは、なぜ、福祉の世界では自己実現という言葉がほとんど無批判に使われているのだろうかということでした。自己実現などと言わずに「幸福」という言葉を使ってもよさそうなものだと思いました。しかし、「幸福になるために生きる」このような言葉も胡散臭い気がします。私は幼い頃、幸福でした。生まれた時点で人生の目的を達成していたと言えます。私はどうしたらよかったのでしょうか?私は人生の目的を「好きなことをして有名で金持ちになること」と幼い頃、漠然と考えていました。もちろん幼かったので真剣に考えていたわけではありません。ただ「碁打ちやプロ野球選手のように遊んで暮らしたい」と思っていました。私が子供の頃の大人たちは、子供を見れば、「将来何になりたいんだ?」「将来の夢は何だ?」と異口同音に訊ねてきました。今振り返って考えてみれば、そのような大人たちは現代の社会構造に人生観を支配されていたと言える気がします。というのは、江戸時代などでは身分制度があって百姓の子は百姓になるのが当たり前だったから、「将来は何になりたいんだ?」などと百姓の大人たちは訊かなかったでしょう。自由競争社会は私たちの脳まで支配しているのでしょうか?自己否定を強いる社会が私たちの目の前に自己実現という釣り餌を垂らしているように思えます。その釣り餌はほとんどの人があきらめ、他の餌に目標を幾度も変えるようになっているのが現在の日本の社会の実情のような気がします。
この自由競争社会の中で上手く生きられなかった一例が統合失調症患者で、病気である現在を否定し、自己実現を目指さねばならない存在なのかもしれません。すでに幸福な人には自己実現など不要でしょうか。もしかしたら私は、幸福だった自分に満足できず、自己実現を強いるこの社会に相応しい生き方をするために病気になったのかもしれません。私はまた再び幸福になりたいと思っているのではなく、不幸を含めた自分の人生に満足したいと思っています。
以上のように、自分の病気と社会との関係を考えるのも自己診察に入ると私は考えています。もちろん社会などと大きなことを考えずに自分の身近なことと病気との関係を考えても構いません。ただ、そこには「答え」はありません。自己診察には自己診断は含まれません。なぜなら、「私は○○病です」と診断してしまっては、絶えず流動している私たちの精神の流れを止めることになるからです。私たちは考え続けます。しかし、答えは考えるだけで見つかるものではありません。生活の中で体感していくものだと思います。どんな生活をすれば統合失調症が軽くなっていくか、幸福になれるか、あるいは満足した人生を歩めるか、それも言葉に表せるようなものではなくて、実際に生活することの中で上手く舵取りをしていくことが肝要だと思います。その舵取りは右に行ったら辛いから左に行こうとか、左に行ったら不安だからまっすぐ行こうとか、少し止まってみようとか、自分のペースで決めればいいことだと思います。自己診察は個人的にするものです。ですが、私はそれぞれの自己診察で得られたものを皆で共有できないかと思い、「心のリハビリを考える会」を開こうと思いました。