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分人主義批判。私はあの人の何を愛するのか?

作家、平野啓一郎に「分人主義」という思想がある。
「個人」はそれ以上分けられない最小単位ではなく、さらに分けることができ、その分けられたものを「分人」と呼ぶ。例えば、家族といるときの分人、恋人といるときの分人、友達といるときの分人、というふうに私たちは分人という「いろいろな私」を環境に応じて使い分けている。
平野啓一郎はさらにこの思想を踏み込んで、「好きな人」というのは、「この人といるときの自分の分人が好き」と言い換えるとわかりやすいと言う。
これを批判してみたい。
 
私たちは恋人と結婚し家族になる場合、恋人といるときの分人が好きだから結婚するのだろうか?
例えば、男性の私は文学が好きで、同じように文学の好きな女性と気が合って、彼女と文学の話をしているときが好きだとする。そして、結婚したとする。しかし、結婚してから私か彼女が文学を嫌いになったとする。そして、ふたりでいるときに文学の話ができなくなり、相手といるときの分人がもはや文学好きな分人ではなくなったらどうなるだろう?私は彼女が嫌いになり、つまり彼女といるときの私の分人を嫌いになり、結果、離婚ということになるだろうか?
別の例にしてみたい。夫婦ふたりの間に息子がいて、赤ん坊の彼をふたりで可愛がっているとする。家にいる息子はその全てを私たち親に見せてくれる。それが幼稚園や学校に行くようになり、徐々に友達といるときの分人が出来てきて、友達といるときは私たち親といるときと違う息子のようになってしまう。思春期になると、息子は友達といる分人を親といるときの分人より好きになり、親といるときの分人を捨てようとするかもしれない。そうなると、私たち親は、自分たちが可愛がっていた息子の分人がいなくなり、従って、息子を可愛がっていたときの自分の分人もいなくなるとしたら、家族を繋げるそれぞれに持っていた分人がいなくなり、家族は消滅するのだろうか?
例はこのふたつで充分だと思う。
私は愛というものは、相手といるときの自分の分人が好きだから愛すると言うのではなく、相手の自分に向ける分人だけではなく、他の人といるときの他の分人もまとめて愛するものこそが本当の愛だと思う。
いや、その人のすべての分人を愛するというより、その人の存在自体を愛することが、人を愛するということだろう。

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