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友情。三銃士、ブッダ、宮崎駿

私は今、『三銃士』を含む『ダルタニャン物語』を読んでいる。テーマは友情、勇気、行動力、冒険だろう。ダルタニャン、アトス、ポルトス、アラミスの四人は固い友情で結ばれている。
私は小学生の頃『アニメ三銃士』が大好きで友情をとても大切にしていた。友達が多かった。
しかし、中学二年生になると、反抗期になり友達が不良になって行く気がして、威勢の良い友達から離れるようになった。人生の表舞台から降りたような気がした。
その頃から夢に生きるようになった。
有名になってみんなを驚かせてやろうと、ひとりで地味に生きるようになった。
手塚治虫に憧れ、マンガ家になろうと思った。同時に仏教にハマった。
手塚治虫はすぐに卒業し、宮崎駿に憧れるようになった。
仏教の不殺生戒と『風の谷のナウシカ』の精神を重ねたりした。
高校では、友達と話すよりはひとりで自分の将来を夢想するようになった。
夢想が行き過ぎ、精神を病んだ。
大学は哲学科に進学した。
友達を作らず仏典を読んだ。
「犀の角のようにひとり歩め」とあった。
私はいつもひとりで、哲学書や小説を読み、マンガの練習をした。
世俗を嫌い、悟りを得たかった。
一方で宮崎駿みたいになりたかった。
しかし、絵が下手だと気づき、二十代半ばから小説家になりたいと思うようになった。学生時代から付き合いのある友達はひとりしかいなかった。
彼は私の小説を読んでくれる人でときどき酒を飲むという付き合いが続いていた。
私は犀の角のようにひとり歩んでいた。
そういえば、ブッダには友達がいただろうか?
みんな仏弟子と教祖の関係だったのではないだろうか?
宮崎駿のアニメも主人公に同年代の友達という横の繋がりが弱い気がする。
『魔女の宅急便』ではキキが街へ出て、同年代の女の子たちが不良みたいに見えて、友達ができず、おそらくそれがもとで魔法が弱くなる。しかし、最後には友達ができる。私は中学生のときにこの映画を観て、非常に感動したが、不良みたいに見える同年代の人を友達にすることは出来なかった。高校で付き合った友達は牙のないインドアな良い子のグループだった。私は居心地の悪さを感じながら夢想の世界、ひとりの世界を生きていた。
大学でも基本はひとりで、同じ授業をとっている人と話はしたが、三銃士のような友情とはかけ離れていた。
現在までこのような状況が続いていて、友達はほぼひとり、話すのは両親と職場の人間だけ。
ブッダはひとりだったとして、宮崎駿はどうなのだろうか?
それは『君たちはどう生きるか』に答えはある。
眞人は悪意の印として自らを傷つけ、友達を作ると言う。世界は綺麗なだけじゃないと答えを出す。
ブッダはひとりだった。
あんなのは生きているとは言えない。
三銃士は殺しも不倫もする。それらはさすがに真似できないが、勇気と友情は大事にしたい。それがなければ生きている意味はない。
それでも私は小説家として売れることを諦めないが、友情を大事にした物語を書きたい。
もちろん現実の友達を大切にしたい。


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