ハイデガー『存在と時間』私を不安にする哲学書
私が大きな影響を受けた哲学書でハイデガーの『存在と時間』がある。
私は哲学科のゼミでこの本を読むクラスに入った。
『存在と時間』において重要な概念に「不安」がある。
「不安」をスプリングボードにして実存へと跳躍するというモデルなのだが、当時精神病に苦しんでいた私にとって、この哲学書は不安そのものだった。
私は大学を休学して自宅療養した。
その頃、毎夜、不安で眼がバッチリ醒めてしまうのだった。
その不安は、そのまま死を意味した。いや、死以上に恐ろしいものだった。
私は自分を不安にさせる哲学書は読まないようにすることにした。
しかし、休学とは言え、哲学科に在籍しているので、哲学の世界から抜け出すことはできなかった。
言葉で思考してしまい、『存在と時間』はその特徴である日常語を哲学用語にしているため、思考に使う言葉が『存在と時間』に出てくるものだと、強烈な不安を呼び起こすことになった。
いや、哲学的論理的思考自体が、不安を誘うものであった。
療養中の私はテレビで『アルプスの少女ハイジ』や『男はつらいよ』などを観ていて、安心できる世界に逃避していた。
いや、逃避という解釈自体がハイデガー的である。
現実には不安があり、そこから夢の世界に逃避するという構図はハイデガーの分析した存在の在り方で説明がつきそうだ。
しかし、「不安」から逃避してはいけないのだろうか?
哲学とは不安と向き合うことだろうか?
いや、そもそもハイデガーが注目した「時間」に「不安」の出所がありそうだ。ハイデガー自身、それには気づいていて、だから『存在と時間』という名の哲学書を書いた。
人間は一直線に伸びる時間を意識したとき、迫り来る死を感じ不安になり、その不安から逃れるために跳躍する。それがハイデガーの着目した時間が存在の在り方に関わる構図である。
この構図ゆえに私はもともとある精神病に加えて思想的にも不安に苛まれなければならなかった。
ハイデガーを超えねばならなかった。
そのためにも先に見た、『アルプスの少女ハイジ』や『男はつらいよ』などが有効で、それらの世界を現実逃避の世界とするのではなく、現実の認識の仕方だと捉えようと思った。つまり『ハイジ』や『寅さん』ばかりでなくあらゆる映画や物語を現実の解釈として自らに武装して不安を打ち破ることにした。たしかにヤクザ映画ばかり観ている人の世界観と、そういうものをまったく観ない人の世界観はまったく違うのである。
私たちは読書や映画鑑賞などで、現実の解釈を改め、穏やかな世界に住むことができる。
ここに来て、私は宮崎駿が『君たちはどう生きるか』でテーマにした美しいフィクションの世界に生きるか、悪意のある現実を生きるかという問題に行き着く。宮崎駿はマンガ『風の谷のナウシカ』から悪意ある現実を選んだが、それはおそらく彼が育ちがいいからであって、もっと殺伐とした思春期を過ごした私にとっては、『となりのトトロ』などは浄土であり、生きたい世界なのである。アニメは浄土を描いて人々に安心を届ければいいのであり、哲学も現実の解釈で人を不安に陥れることはせずに、穏やかさをもたらす現実解釈をするべきである。
私はこの点で、カントのコペルニクス的転回を意訳して、世界の解釈の仕方はこちら側にあるならば、世界は自由に書き換え可能だと考えた。そもそもそのために読書をするのではないか?『少年ジャンプ』ばかり読んでいれば世界はその世界から見た世界にしかならない。文学や芸術の価値は世界像を自由に書き換えるところにある。宮崎駿自身が言っているが、「描くに値しない人間は描かない」それでいいのである。
それに私は人間の解釈は穏やかな心の中からされるべきだと思う。
戦争がなくならないのは、敵という人間の捉え方が根強くあるからだと思う。穏やかな心で自分たちと価値観が対立する人々を見れば、対立する価値観も認めようとする物だと思う。
「不安」が私たちの判断を歪めてしまうのである。
哲学の基礎に「不安」を置いたハイデガーは、哲学者を不安の呪縛に捉えてしまうため、哲学者を幸福にはしないのである。
そういえば、私が所属していたゼミの先生はいつも何かを心配している表情をしていた。博学な偉い先生なのだが、普通の目線で見れば臆病者の見た目だった。
哲学の思考は論理的で堅い。
情緒的な柔らかい思考ではない。
もともと緊張感がある論理的思考ならば、そこに「不安」をテーマにしてしまえば、その思考はより不安感の強い物になる。
哲学、というか思考は安心の中でできたほうが、穏やかな答えに結びつく。
ハイデガーの哲学はナチス時代のドイツで作られたことももちろん背景にあるかもしれないが、とにかく、平和の思考の中の哲学ではない。
平和の中で出された思想こそ、尊重に値する思想である。
哲学は疑い、宗教は信じる、そう二分するならば、どちらのほうが安心をもたらすかは自明のことだろう。
もちろん、宗教が不安を与えることはある、しかし、疑うことが仕事の哲学は、信じることが仕事の宗教に思想の最後の仕上げを受け渡したほうがいいような気がする。