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哲学と行為

三島由紀夫の美学や王陽明の陽明学は行為に至るまでの内面の在り方を論じているばかりで、その行為が良い物か、その行為の結果世の中に何がもたらされるのか、というようなところまでは考えが至っていないと思う。三島由紀夫は人質を取って立てこもったし、王陽明は陽明学を完成したあと、戦争で武勲を立てている。ふたりとも行為に出るまでの内面の道のりは多くの人が参考にできる素晴らしい思想があるのだが、その思想の結果、実際にやった行為の是非については疑問を持つ人も多いと思う。
現代西洋哲学もそのようなところがあって、例えばハイデガーは「良心の呼び声」などと言っているが、一般的に見れば、その良心の呼び声によって何をしたかが大事であって、そこに至る哲学的過程は、難しく考える必要は無いのである。
哲学は心の内面に目が行きやすい。しかし、心の外面にこそ、哲学は生きなければならない。そういう意味では私は中国の諸子百家の墨子などが、かなり哲学の本来の精神であるような気がする。墨子は「非攻」を唱え、自衛のための戦力を持つことはいいが、他国を侵略するための武力は持つべきではないなどと言った。「博愛」も彼の思想だった。
内面を整えるために哲学をすることは悪いことではないが、結局はそこから出てくる行為の是非が重要なのであって、立派な哲学を持っていても、行為が悪であるならばその哲学の意味はなかったと同じことになると思う。
ベルクソンが、「開いた思想」「閉じた思想」などと言っていたと思うが、これは内面で完結してしまう思想が閉じた思想で、外面に出て行為するための思想が開いた思想であると思う。
例えば、若くてまだ子供を育てる経済力の無いカップルに、「おい、コンドームはつけろよ」などと笑って言うのが開いた思想精神で、「コンドームとは人工的なもので、性の在り方として不純ではないか、性のあるべき姿とはなんぞや?」と内向的に深く考えるのが閉じた思想精神だと思う。
もし、内面の哲学が完成したら、そこから行為に移るのだが、その行為を方向づける哲学が、内面の哲学に基づいた外面の哲学であると思う。喩えるならば、陽明学で内面の在り方を整えたならば、墨子の哲学で外面に出ていき行為する、そのような在り方が哲学の世の中にある意味だと思う。宇宙とはどうなっているか、その宇宙の中で自分はどう生きるか、それを深く考えた結果、人を殺しているようでは哲学のある意味が全くないような気がする。

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