格差社会と「ふつう」の意識
今日は、新しく買ったカメラを試そうと、それを持って散歩に出かけた。
近所の公立高校の前を通り、その教員たちの駐車場と思われる場所を見た。
そして、何気なく思ったのは私の勤めている老人ホームの職員駐車場との違いだ。老人ホームの駐車場にあるのはほとんどが軽自動車である。それと比べて、この高校の駐車場にあるのはほとんど普通車で、価格帯もミドルクラスと言ったらよいだろうか、高級車と呼ばれるようなものはなかった。軽自動車もあまりなかった。
これは老人ホームの介護職員と高校教師の収入の格差が原因と思われる。
私は介護職員で、車は軽自動車に乗っている。私の父は元中学教師で、私が生まれた頃はカローラに乗っていた。軽自動車を所有したことはない。そのくせ、私が「ポルシェとか乗りたいと思わないの?」と言うと、「そんなものくだらない」と高級車の価値を全否定する。
私は精神を病んでいて、毎月一回精神科を受診しているのであるが、その医師の乗っていた車種を私が知るかぎり挙げれば、ジープ、BMW、ポルシェである。私が趣味で陶芸をしていると言うと、医師は、「ああ、そういうのを買うというおカネの使い方もあるなぁ」などと言っていた。カネの使い方に困っているようだった。
また、逆に私が二十代初めに精神科のデイケアで出会った人々は私も含めことごとく貧乏人で、昼食はカップラーメンだけという人も多かった。ある日、デイケアで料理をする日に、ある利用者が、それと知らず、おにぎりを持ってきた。彼は料理の日だと知ると、頭を抱えて言った。「おにぎりを買ってきてしまったー!」コンビニのおにぎりは当時120円くらいだった。看護師が、「夜食べればいいじゃない?」と言うと、「いや、夜はお母さんが作ってくれる料理がある。ああ、おにぎり代を損した!」と彼は言った。私にはその気持ちがよくわかった。おにぎりは自分のお小遣いで買うのだが、夕食は親が出してくれる。おにぎりの120円の出費は精神障害者で無職の彼にはあまりに痛いのだった。
「ふつう」の意識について
私たちには「ふつう」という意識がある。
現在私が勤めている介護現場の仲間では、結婚していたり、恋人と同棲している場合、アパートに住むのが「ふつう」だ。この前、二十代後半の新婚の女性が、四十代の既婚者の男性と話をしていて、話が噛み合わず、その原因は四十代男性は一戸建ての家を持っていたことにあった。介護士の「ふつう」はアパートに住み、軽自動車に乗るというイメージである。
高校教師などはたぶん、一戸建ての家に住み、ミドルクラスの自動車に乗るのが「ふつう」だろう。
私の精神科の主治医は、自分は金持ちだと自覚していて、ポルシェや高級ブランドの服を着るのを「自慢」と言っていた。彼は自分を「ふつう」とは思っていなかった。たぶん生まれは金持ちの家ではなかったのだろうと想像できる。
私は精神障害者のコミュニティも知っていて、そのコミュニティでは、障害年金をもらいながら、就労移行支援施設で最低賃金かそれ以下で働き、ある程度働けるようになったら一般の会社に障害者枠で就労というのが「ふつう」だ。いや、これを「ふつう」とは当事者だって思っていない。ただ、人間は同じような境遇にある人を見つけ、自分を「ふつう」と思いたいらしく、障害者の「ふつう」を見つけてなんとか安心したいという気持ちが働くようだ。
私は知らないが、高収入の社員ばかりがいる会社の駐車場には高級車ばかりがあり、軽自動車などがあったら逆に目立ってしまうだろうから、高級車に乗るのが「ふつう」になるのだろうか?
自分が「ふつう」だと思いたいがために人は同じ社会階層の人と友達になりたがる傾向にあるようだ。
カネがないから海外旅行には行かない、というのが「ふつう」だとしたら、私は絶対に海外旅行に沢山行きたい人間なので、海外旅行できない境遇を「ふつう」と思い自らを慰めることはしたくない。私は金持ちになりたいというより、自由が欲しい。もちろん自由を手に入れるのはカネを手にすることだが、豪邸や高級車が欲しいという思いより、自分が沢山旅行したいのと、子供に良い環境で育って欲しいがためにカネが欲しいのである。大金を稼いだら、キャバクラで豪遊しまくるとかバカだと思う。そういうカネの使い道は文化資本の低さにあると思う。学びたいのにカネがない。絵が好きで世界中の美術館を巡って本物の絵を観たいのにカネがないから、国内に展覧会が来たときに観るに留める。そういう文化資本の格差はあってはならないと思う。特に学問をしたいという思いには貧富の格差なく答えられる世の中にしたい。大学まで授業料無償化するのは当然だと思う。
私は大学に行くことが「ふつう」だと思っていた。しかし、高校生になった頃、世の中がわかってきて、大学を出るのが「ふつう」ではないと知った。私はそのことで悩み、自分の立っている地盤が不安定なものに支えられているように思い、高校二年に統合失調症という精神病を発症した。それでも「ふつう」から落ちこぼれるのは死ぬのと同じみたいな気がして、一年浪人してなんとか大学に入学した。しかし、もう私は「ふつう」を当てにしなくなった。
「みんながそうしているから」
その意識で自分も同じようにして、自分は「ふつう」だと思う生き方は弱い生き方だ。社会の現実から目を背ける生き方だ。
私は風俗店に行ったことがないが、テレビで芸人が風俗店に行ったことを面白おかしく言うのを見ると反吐が出る思いがする。ああいう言論を自由にさせていては、それより若い世代に、悪影響がある。ああいうのは言論の自由ではない。若い人に風俗店へ行くのを「ふつう」と勘違いさせてはならない。
また、自分の人生に満足できてないのに、妻がいて子供がいる自分の境遇を「ふつう」と思って慰めるのも間違いだと思う。その人は人生に満足していないのである。
「ふつう」の縛めから逃れて、自分独自の人生を生きてこそ、生きるに値する人生だろう。