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通り魔を弁護する

私は弁護士ではなく、人文学系の人間なのでその立場から、通り魔を弁護してみたい。
いや、通り魔は絶対、悪でしょう?
もちろんそうだ。
あってはならない行為だ。
しかし、私の問題意識は、通り魔を自分とは違う人間、理解できない人間だからと、激しく憎悪する感情は果たして善であるのか、そういうことだ。
罪を憎んで人を憎まずとある。
それなのに、刑事や検事などには、罪を憎みながら人も憎んでしまう人間がいるようだ。
まあ、人を憎んでもいいじゃないかと言えばそれまでだが、憎い敵は重い罰を受けるべきだという感情は、子供の見る勧善懲悪のマンガやアニメのレベルである。
最近もある検事が、上司からの犯罪行為を受け、訴えていた動画を見たが、検事ともあろう頭のいい人間が、まるで子供のように泣きじゃくって悔しさとその上司に対する憎しみを吐露していた。司法試験に合格した人間にその程度の思考感覚しかなくていいのか?
日本国民は通り魔殺人犯を死刑にしてスッキリするのだろうか?
そこに罪はないのだろうか?
新約聖書には、罪人を取り囲んで石をぶつけて死刑にしようとしている人々をキリストが止めて、人々が、その罪人はこれこれこんなに悪いことをしたのだ、殺されて当然だ、と怒っていたところ、キリストはなんと言ったか?
「では、あなた方の中で、自分は罪を犯したことが無いと思う者から石を投げなさい」と言った(今、新約聖書を調べたら、その場面がなかなか見つからなかったので、私の記憶の中から引用した)。そして、誰も石を投げられなかったという。
私たちは悪人を憎む傾向にあるが、自分が悪人であるかもしれないとは考えないかもしれない。正義感の強い者ほどその傾向がある。
憎む対象を、鬼や悪魔にしても同じである。
私たちは自分が憎んでいるときの顔を想像したことがあるだろうか?
ドストエフスキーのどの小説だったか忘れたが、「怒っているときの人間はかっこいいですからなぁ」というセリフがあった。ドストエフスキーは洞察力がある。
今の世の中でも悪を憎む怒った顔はかっこいいとされる。
悪と戦うマンガの主人公は怒っている顔が大概かっこいい。
その顔は別の穏やかな平和なマンガに登場すれば怖い顔であろう。
それが通り魔にも言えるかもしれない。
通り魔が何を考えて人を殺すか知らないが、そこに行き着く過程には、長い道のりがありそうだ。何か世の中全部が憎いと思うことがあったかもしれない。生まれたときから通り魔なんて人間はいない。生きていく過程で、そのような犯罪行為に導く思想や感情が生まれてくるのだ。
じゃあ、通り魔殺人を許すべきか?
この問いにはふたつの意味がある。
ひとつは通り魔殺人を「やった人間」を処罰するかそれとも許すか、という意味だ。
もうひとつは、これから通り魔を「やろうとしている人間」を許すか、という意味である。
私は前者は許しても、後者は絶対に許してはならないと考える。
しかし、このふたつは一般的に同じ机の上で考えられてしまう。
ようするに、抑止力としての刑罰だ。
私は法の抑止力はあると思うし必要だと思う。
しかし、死刑執行のボタンは押したいとは思わない。
国家の名において、私は人を殺したくない。
それは戦争否定にも繋がる。
しかし、罪を犯した人を処罰しなければ抑止力にはならない。
しかし、キリストは罪人すべてを許すだろう。
しかし、ドストエフスキーが問題にしたのは、殺人罪を犯した人間を許すのはいいが、殺された人間はどうなるのか?
そういうことだと思う。
どんなに犯人に厳罰を与えても、殺された人間は戻ってこないのである。


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