北野武監督の映画『首』は笑えない。ギャグと幸福
以前、何かの広告イベントの際、「あなたが幸福を感じる時はどういう時ですか?」と北野武が質問され、彼は「ひとの不幸を見た時かな?」と言って笑わせていた。たしかにギャグとしては面白い。しかし、彼はそのギャグの恐ろしさを罪の深さを熟知している。それが彼の映画に如実に表れている。彼の映画は暴力が重要なテーマになる。その暴力の恐ろしさは、普段、ビートたけしがテレビでやってるギャグを冷静に見たら怖いというものが多い。というかそういうものを集めて映画が構成されている。映画では笑わせる目的で撮られた場面では素直に笑えるが、冷静に見させる目的で撮られた同じような場面にはまったく笑えず恐怖を感じる。例えば、『菊次郎の夏』のスイカの皮を被った男が地面に埋められて首だけを地上に出していてその頭を叩くスイカ割りのシーンは笑えるが、『首』の実際に首が飛ぶシーンは笑えない。もし、『首』の首が飛ぶシーンを見て笑っている人がいたら、その人はもう狂っていると言えるだろう。「他人の不幸を見た時に幸福を感じる」という言葉は、真実であり、それは幸福というより狂気である。ビートたけしのギャグは時々見ると面白いが、常に見ていると非常に疲れるのである。しかし、彼はそれを毎日四六時中メディアを通してやっているのである。『ソナチネ』などで自分の頭を銃でぶち抜くシーンがあるが、あの頃北野武は死にたかったのだろう。いや、今も死にたいのかもしれない。彼自身「人間は死ぬために生きている」などとも言っている。
ビートたけしの笑いは人を幸福にはしない。ただ、「自分にはまだ笑うだけのゆとりがある」と慰めてくれるだけだ。私が思う幸福な笑顔とは、美味しいものを食べたときに頬が自然とほころぶようなそういう笑顔である。ビートたけしの番組に限らずテレビのお笑い番組を見て笑うことは、幸福度としては低いと思う。