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哲学と統合失調症。脳内独語について

自らの内側を見つめてみれば、そこに常に内なる声の流れがあることにほとんどの人は気づく。意識とともに生きている限り、私たちは常に心の中で独白をしている。言葉は完成した文になっていることもあれば、断片的なフレーズということもある。驚きの叫びもあれば、何かについて長々とした説明もあるだろう。

『タコの心身問題』ピーター・ゴドフリー=スミス著、夏目大訳より

初めに断っておきたいのは、私は統合失調症という精神病を十六歳から患っていて、四十四歳の現在までその病とともに生きてきた人間であることだ。
 
私の統合失調症の症状として脳内独語がある。統合失調症の一般的な症状に幻聴があるが、私の場合実際に聞こえると言うよりは、頭の中で独り言を言っているという風に言った方が当たっている。
そこで上記の引用文の著者スミス氏は哲学者であるが、「常に心の中で独白している」と言っている。私はこの心の中の独白を統合失調症の症状と捉えていたが、一般の人にもあるのだろうか?スミス氏が哲学者であるから、こういう心の在り方をしているのではないだろうか?
哲学は、特に西洋哲学は言語中心の学問である。真実を言語化しようとする欲望を絶えず持っている。私は大学が哲学科だったのでその欲望の影響をもろに受けた。
私は統合失調症になる前、つまり十六歳より前には常に脳内独語があるという心の在り方ではなかった。しかし、発症した高校生の時は、常に頭の中に言葉があり、死ねば楽になるか、とか、消えてしまいたい、などと思っていた。しかし、大学に進学し哲学科に入ると、哲学書というものに出会い、頭の中の独語の話者を偉大な哲学者たちにしよう、と思い、よく読んだ。それ以来二十年以上私の頭の中は哲学的な独語で溢れている。そして、哲学で統合失調症を治そうと、学生時代から三十代半ばくらいまで思ってきた。特に仏教の影響が強く、私にとって統合失調症が治るということは、悟りを開くということだった。これは妄想ではなく、仏教を学べばわかることだが、あの宗教の目的は解脱である。解脱とはブッダになることである。ブッダとは「目覚めた人」という意味がある。仏とはブッダのことであり、死者のことでは必ずしもなく、生きながらでも仏になることができる。これはたしかに大げさな言い方であるような気もする。しかし、私は統合失調症が治ると言うことは、幸福になることだと、真面目に考えている。もしかしたら不幸とは統合失調症のことで、心が健康であれば、どのような環境に置かれた人でも不幸ではないような気もする。それだけ辛い病気なのだ。
私は発症後から二十年以上脳内独語が続いている。最近は登山などで心身をリフレッシュすると、脳内独語が消えることがある。あるいは意識的に消すこともできる。だから、もう治るのは近いと感じている。しかし、上に引用したスミス氏の言葉を読むと、誰もが脳内独語をしているように読める。これは哲学者スミス氏の間違いだろうか?それとも人はみな、脳内独語をしているのであろうか?しかし、自分の思想を言語化することは必ずしもすべての人にできることではない。語彙が必要でそのために学問が必要である。学問の足りない人は、言語化できない何かを信じて生きる。私も十六歳で統合失調症を発症するまでそうだった。私は読書をする子供ではなかったので、人生を云々するような語彙は持ち合わせていなかった。スミス氏の考えと私の経験を総合してみると、大人になると脳内独語が始まるのだろうか?また仏教の話をすると、仏教の目的は脳内独語を消すことのように思える。特に禅宗はそうだ。心を無にする。頭をカラにする。そんなことを仏教などという難しい哲学を出さなくても一般の人は当たり前にやっているのではないだろうか?仏教の目的は常に心を無にすることであり、常に頭をカラにすることだと思う。しかし、生きている間はそれは不可能だと思う。ただ、心を無にしたり、頭をカラにしたりすることを、いつでもできる人は健康で幸せな人だと思う。
それとも、言語重視の西洋人と、非言語重視の日本人では、頭の構造が違うのだろうか?
西洋人の場合、愛していることは言葉で伝えなければならないらしく、長年連れ添った夫婦でもお互いに「愛してる」などと言うのかもしれない。それが日本人ならば、夫が長年連れ添った妻に「愛してる」などと言ったら「なによ、気持ち悪い」などと言われるかもしれない。
脳内独語がある統合失調症を病んだ私は言語重視の西洋人に近いのかもしれない。しかし、健康になるためには非言語重視、言葉にならない思いを重視して生きていきたい気がする。

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