統合失調症の私、北アルプス最高峰、奥穂高岳に登る
序
私は独りザックを背負い、松本電鉄新島々駅に降り立った。蒸し風呂のように暑い日で、これから上高地に向かう私は、さっさと、この暑い下界からおさらばしたかった。そうだ、私は翌日、独りで、北アルプス最高峰、奥穂高岳に登るのだ。
まずは私の自己紹介をしたい。私は高校時代より統合失調症を患っている四十三歳独身の男性である。SWを名乗っている通り、ソーシャルワーカーの資格を持っていて、小説家(ストーリーライター)を目指している。職業は三十四歳から特別養護老人ホームで介護の仕事をしていて、今年、十年目にしてパートからようやく正規職員になれた身分である。そして、今回の記事で一番重要なことだが、登山を趣味にしている。毎年、一回、夏の高峰に独りで登ることを楽しみとしている。
このnoteでは、主に「心のリハビリ」について書いて来た。他にも小説や哲学など書きたいことを書いているが、基本は統合失調症の方の生き方について書いている。しかし、「心のリハビリ」については書き尽くしたような感があるので、最近は、統合失調症を患っていても充実した人生を生きるにはどうしたらいいかというテーマで「統合失調症者にアウトドアを勧める」という記事を書くようになった。そこで自称「統合失調症者にアウトドアを勧める会会長」を名乗っているが、別にそういう組織があるわけではない。ただ、アウトドアは病気であってもなくても人生を豊かにしてくれるという信念はある。アウトドアをすれば心のリハビリになり、精神病も癒されるという趣旨では書かないことにしている。もちろん、そういう心の健康についてもアウトドアは有効であると言えなくもないが、それでは健康のためにアウトドアをするという意識になり、せっかくのアウトドアが「健康のため」という目的に押しつぶされてつまらなくなる可能性がある。だから、私は「健康のために」とは言わない。ただ、充実した人生を送るためにはアウトドアという選択肢がありますよ、と言いたいのだ。とくに私は自分がしている登山を勧めたい。これまでは自分の普段している近場の低山登山の様子を書いて来た。今回はいよいよ、本番の三千メートル級の登山の記事を書く。今回登る山は、北アルプスの盟主、穂高連峰の前穂高岳、奥穂高岳である。とくにメインなのは日本で三番目に高く、北アルプスでは一番高い、奥穂高岳だ。
1.上高地
八月二日、私は、電車を乗り継いで、長野県の松本駅に着いた。そこからさらに松本電鉄上高地線で新島々という駅に行く。上高地線はワンマン電車で地元の乗客は松本大学に通う学生が多く使うようで、松本大学前駅に停まると、ほとんどの乗客が降りて、電車の中はほぼ登山者だけになった。この日は暑い日で、電車のドアが開くと酷暑の熱風が車内に舞い込んできた。登山客は本来ならば多くいるのだろうがコロナ禍ゆえか少なかった。私はコロナ禍でも政府の蔓延防止などの要請がなければ行くと決めてあった。介護職員としてはどうかと思うが、今年度が始まる頃はコロナも落ち着いてきていて、私は年次有給休暇をこの八月二日から四日まで取ってあった。それに八月五日に希望休を入れて四連休としていた。つまり、ずっと楽しみにして来た山行なのだ。
新島々からはバスに乗る。上高地はマイカーで入ることは禁じられている地域で、マイカーで来ても上高地の外にある駐車場からやはりバスに乗らなければならない。バスに乗るといよいよ観光地に来た気分になった。そうさせてくれたのは、車内アナウンスの昭和的知性派的オバサン的な女性の声のおかげで、その声は、上高地には一時間五分で着くこと、そして上高地の自然の素晴らしさを紹介してくれた。なぜ、バスのアナウンスは昭和的なのだろう、と私はどうでもいいことを考えながら車窓を楽しんでいた。
十四時三十五分に上高地バスターミナルに着いた。上高地には多くの登山客や上高地リゾート観光客がいた。もちろん本来の混み具合よりは少なかったろうと思う。みんなマスクをしていた。私はこの日は登山の予定はなく、ただ、上高地の宿に泊まるだけで、ぶらぶらと時間を潰す予定だった。
ここで、私の登山日程を紹介させてもらいたい。
今回は、上高地を起点とし、上高地に戻ってくるルートだ。詳しく言うと、河童橋のたもとに宿を取り、翌日、朝四時に出発し、岳沢小屋という小屋に向かって登る。そこから重太郎新道という難しいルートを登り、紀美子平という所でザックを置いて前穂高に登り、また同じ所に降りて来て再びザックを背負い、吊り尾根というルートを歩いて奥穂高に登る。そこから反対側の鞍部にある穂高岳山荘に泊り、翌日、ザイテングラートという岩場を降りて、涸沢という場所を通り、横尾という場所に下山し、あとは平坦な道を上高地まで歩いて戻る、そういう予定だ。
上高地は梓川という川が作り出した美しい景勝地だ。昔、ウェストンというイギリス人がアルピニズムをここに持ち込み、それ以来この地の登山が盛んになったらしい。上高地には下のようなウェストン碑というものがある。
アルピニズムとはそもそも、ヨーロッパのアルプス山脈にちなむ。日本語に訳せば登山主義だろうか。日本には古来山岳信仰があったが、アルピニズムは宗教ではない。ではなんなのか?それは海水浴が宗教でないのと同じだ。海水浴もヨーロッパから持ち込まれた文化で、明治以前の日本にはなかったらしい。まあ、アルピニズムとは一言でいえば、山に登る喜びを味わう趣向とでも言えるかもしれない。もちろん、登山は命がけな所がある。趣向などと簡単には言えないかもしれない。しかし、アルピニズムは宗教ではないから、趣味の範囲を出ない。ようするに、ヨーロッパの暇なブルジョア階級の遊びに過ぎない。しかし、それは命がけの遊びだ。今でもそういうものはたくさん存在していて、スカイダイビングなど危険な趣味がたくさんある。それらはほとんど欧米人が考え出した趣味のように思われる。しかも、カネのある社会階層の趣味だ。その中でも登山は比較的安く交通費や宿泊費だけで楽しめる。今回の私の交通費は、自宅から上高地まで片道、一万八百五十円だ。ちなみに私は東京都民ではない。東京からだと、新宿から上高地までの直通バスがあるようだ。それを使えばかなり安く上がるだろう。そして、宿泊費はというと、私は一日目の上高地の宿は安い山荘を選んだ。上高地は帝国ホテルなど高級なホテルがある反面、薄給の介護士である私でも泊まれる山荘がある。相部屋だが、登山では当たり前のことだ。その宿は、夕食と翌日のお弁当がついて、一万円だった。私はいつも朝早く出発するため、朝食は頼まず、代わりにお弁当を出してもらう。これは山小屋ならではのシステムで、朝食抜きにし、代わりに前日の夕食時に翌日のお弁当を受け取る。山小屋の朝食は朝五時からが一般的だが、私は時間に縛られたくないのでお弁当を頼む。特に山上の小屋では、外で日の出を見たいので、朝の時間の自由は重要だ。今回も穂高岳山荘からの夕日と朝日を見るのが私の楽しみだ。もしかしたら、朝日は少し山を登って、涸沢岳山頂から見るかもしれない。そのときの気分で決めようと思っていた。で、おカネの話をしていた。上高地の宿が上記のように一万円で、山上の穂高岳山荘は夕食、お弁当込みで一万三千五百円だった。これで最低限必要な経費が出そろった。私が今回必要とした経費は、四万五千二百円だ。これに食費などを入れればだいたい五万円前後だろう。これを安いと見るか高いと見るかは人それぞれだが、統合失調症を患っていると、収入が乏しい人が多いと思う。でも、登山のこの値段なら届かないこともないと思う。一年に一回の贅沢だが、頑張ってみて欲しい。もちろん、日本アルプスは中部地方にあり遠いという人も多いだろう。しかし、日本は基本的に山岳地帯が多く、大抵の所には、よい山があると思う。
で、上高地の一万円の山荘にはなんと温泉まで付いていた。私は当初入ろうかどうか迷っていた。なぜなら、持って来たタオルを濡らしてしまえば、その濡らしたタオルを山の上まで持って行かなくてはならない。しかし、私は入ると決めた。タオルは一晩で乾くだろう、それが私の見立てだった。
私は四時までブラブラしようと決めた。とりあえず、翌日登る岳沢への分岐点を確認しに行った。用心深い私は翌日の暗い朝にその分岐点がわからなかったらどうしようと心配していたからだ。しかし、分岐点にはしっかりと看板が立っていた。上の写真は分岐点まで行く途中にあった池の景色だ。こういう美しい景色は上高地の至る所にある。
私は美しい上高地の風景を堪能していた。空は晴れていた。奥穂高は雲に隠れている時間が長かったが、それでも時々見えた。明日の天気はどうだろう?それだけが心配だった。今日登ればよかった、などと思っていた。
予定通り四時に風呂に入った。湯船からガラス越しに奥穂高が見えた。
「あそこに明日行くのだ」
そう思うと漲るものが私の中に生まれた。北アルプス最高峰である。周囲はすべて自分より低いのだからその眺望は絶妙だろう。私にはどこに何という山があるかという知識はほとんどない。いつも、登ると決めた山についてだけ調べる。今回調べたのは、奥穂高、前穂高、北穂高、西穂高だ。北穂高は難易度が高いため今回は見送ることにした。西穂高はもっと難易度が高いらしい。奥穂高から西穂高のルートは馬の背と呼ばれ、非常に狭く、ナイフリッジなどという恐ろしい名前もついていて、ほとんど道ではない。それは北アルプス最難関のルートと呼ばれているらしい。その途中にあるジャンダルムという岩塊に登るのが登山者の憧れだ。もちろん、私の今の力量では無理だと思い行く予定には立てなかった。しかし、「待ってろよ、ジャンダルム」という気持ちにはなっている。奥穂高はその西穂高、北穂高、前穂高を結ぶ稜線の分岐点にある。そして、最高峰でもある。ゆえに奥穂高こそこの山域の盟主なのだ。
私は風呂を出ると、部屋に戻った。部屋の奥に畳の部分があり、私はそこで扇風機に当たりながら、タオルを乾かすことにした。なんのことはない、タオルは宿が無料で貸し出していた。私はそれを知らず自分のタオルを濡らしてしまったが、存外無駄ではなかった。というのは、扇風機に当たりながら濡れたタオルを顔に押し付けているとなんとも冷たくて気持ちが良いのだ。私は畳に座り顔にタオルを押し当てて、窓外の林を見たりして、贅沢な時間を過ごした。夕食は六時からだったので、まだ一時間以上時間があった。私はまた、宿を出てブラブラした。タオルは扇風機に当てたままにしておいた。
夕食は素晴らしかった。ソーシャルディスタンスは取られていたし、ひとりひとつのお櫃の中には多めのご飯が入っていた。上の写真にはないが、お吸い物も付いていた。主菜はとんかつだ。美味だった。
食後、私は再び宿を出た。
河童橋周辺はもうほとんど人はいなかった。上の写真はその橋のたもとにある店である。なんとなく美しいと思ったのでシャッターを切った。空は本当に素晴らしく真上には雲がなくて、遠くに入道雲が見えた。
上の写真は焼岳方面のものである。山の上はさぞ夕焼けがきれいだろうな、などと私は思っていた。穂高岳山荘からの夕焼け、私は思うだけでニヤニヤとしてしまうのだった。さあ、明日のために寝よう。私は宿に戻り、部屋に帰った。扇風機に当ててあったタオルはほとんど乾いていた。私はそれをザックに入れ、腕時計のアラームを三時三十五分にセットして布団に入った。ちなみに登山中はスマホはオフにすることにしていた。充電する場所があるかどうか心配だったし、なにより、日常を抜け出したかったのが最大の理由だ。ラインなど山の上に持ち込みたくなかった。じゃ、おやすみ。
2.岳沢、重太郎新道、前穂高
朝、時間通りに目が覚めた。私は宿の外のベンチで、いつも通りお弁当を食べ、湯を沸かしてコーヒーを淹れた。淹れたと言ってもインスタントである。それを水筒に入れて、前穂高山頂で持参のあんパンとレーズンパンを食べながら飲むのだ。そこでは至福の時間が過ごせるだろう。大パノラマの中、優雅な時間を過ごすのだ。そして、パンとコーヒーを少し残しておき、奥穂高山頂でも極上の時間を過ごすことが今日のメインデッシュだった。
四時二十分に宿を出た。これは当初の計画より二十分遅れである。前日、確認しておいた岳沢への分岐もきちんと確かめ、岳沢への登山道に入った。途中の風穴という、冷たい風が出てくる場所に着いたのは、予定の五時二十分より十二分早い五時八分だった。ということは、二十分遅れで歩き始めたのだから、想定よりも三十二分も早いことになる。私はこの勢いで岳沢小屋まで一気に登ろうと思った。私はいつも十五分歩いては一分小休止というマイルールで歩くのだが、このときもそうしていた。そして、次第に岳沢小屋が近づいて来た頃、後ろから人の気配がした。ひとりの登山者だった。年は私より少し若く見え、髪が長く、茶色に染めていて服装が妙に馴染んでいたし、この時間にここを歩いているということは、今朝上高地のどこかの宿から出たのは必定だし、ということは私よりずっと歩くのが速いのだ。そして、それ以上に驚いたのは、岳沢小屋で休憩し私は飲料水をペットボトルに補充したのだが、そのとき休憩するその人を見たら、オッ〇イがあった、つまり女性だったのだ。
「すげえ、猛者が現れた」
私はこの人にはかなわないと思った。そして、私は山にロマンは求めてもロマンスは求めていなかったので、なんとなく違和感を覚えた。そうだ、山にも女はいるのだ。しかし、どうも山で出会う女というのは都市部で見かける女と全然違うような気がした。これは今回の登山のテーマのひとつになった。とにかく私は出発した。彼女は私の後ろからついて来た。同じ重太郎新道を登り始めた。
上の写真のようなのが重太郎新道だ。このような岩場は普通にあった。私は途中で彼女の速さに恐れ入り、道を譲った。彼女は、「雲が出てきちゃいましたね」と言った。私は「そうですね、上はどうでしょうね」などと返した。そうだ、先ほどから雲というか霧が上がってきて空を覆い始めたのだ。前穂高では景色が見られるだろうか、不安になった。
長い梯子を登った。これがこの重太郎新道で一番長い梯子だろうと私は見当をつけた。ネットの動画で見たのと同じだと思ったからだ。梯子のあとも、結構きつい登りが続いた。途中、さっきの彼女が休憩していた。私は、どうせまた抜かれるのだからと思い、彼女に先に行くか訊くと、彼女は、またそのとき抜くというようなことを言ったので、私はそれもそうかと思い、先へ進んだ。しばらくして、やっぱり彼女に抜かれた。
岩場は続いた。考えてみれば私は普段、低山を一時間程度登って良しとしていた。それが、今日の予定では十時間歩くのだ。「持つか?」もう四十三歳である、体力が持つか心配だった。本格的な登山というのもコロナ禍になり遠のいていた。日頃からトレーニングをしているわけではないし、体を動かすと言えば介護の仕事と、休日の低山登山だけだ。それが奥穂高へ?舐めていたか?しかし、もう遅い。前に進まねばならない。私は早く紀美子平に辿り着くことを願った。この岩を越えたら紀美子平か、この岩を越えたら紀美子平か、などと考えてばかりいた。とにかく今回の最難関である重太郎新道さえ乗り切ればもうこっちのもんだ、などと思っていた。結局、私は岳沢小屋から数えて二時間後に紀美子平に着いた。当初の予定より一時間早かった。そこには何名かの登山客がいて、他にも防水カバーをつけてあるザックが置いてある。その人数だけ現在、前穂高に登っているのだ。私もザックを下ろし、サブザックに飲み物とパンと雨具を入れてそれを背負い、防水カバーをつけたザックは置いたまま前穂高に出発した。岩場が続いた。周りは霧で見えない。岩は濡れていて滑る。山頂は見えない。私は紀美子平のときのように、この岩を越えたら山頂か、などと常に考えながら登った。はっきりと重太郎新道よりきついと思った。降りて来る人もいる。どうせ山頂では景色は見えないのだろう?じゃあ、なぜ、俺は登るのか?とにかく私は体を動かした。前へ進め。理由はいらない、登り切れ。勇気ある撤退という言葉もある。しかし、この時の私には充分前穂高を攻略できる力があった。それは自覚していた。ただ、精神の強さの問題なのだ。この前穂高さえ登ってしまえば、あとは奥穂高までの簡単な吊り尾根があるだけだ。ここが勝負どころだ、そう思っていた。そして、ついに山頂に着いた。
周囲は霧でまったく見えない。しかし、ここは目的地だ。私は登り切った。私は達成感を覚えながら、予定通り、石に腰掛け、あんパンを食べ、コーヒーを飲んだ。達成感はあったものの、やっぱり景色が見られないのは面白くなかった。結局、前穂高に滞在したのは十四分だった。前穂高の下りは登りより楽だった。もちろん怪我をしたり死んだりしてはいけないから慎重に降りた。しかし、先がわかっているというのはなんとも心強いものだ。どこまで続くのだ、そう思うことが精神にはしんどく思えてくる。前穂高ではそれを学んだ。私は紀美子平に着くと自分の荷物をととのえ、それを背負って、吊り尾根へと歩いて行った。
3.吊り尾根、奥穂高岳
吊り尾根とは、尾根ではなくその下を行く道で、今回の私の場合尾根の左側の斜面に道があるのだ。つまり最上部の尾根は歩くのが危険なため、このようなルートが設定されているのだ。だから、私は吊り尾根は簡単だと思っていた。しかし、それは明らかな誤りだった。歩き始めた初っ端から、難しい岩場があった。真っ直ぐ進むのだが、その岩には一本の亀裂が横向きにあるだけで、そこを踏み外せば、霧で見えない奈落の底へ落ちてしまう恐ろしい場所だった。それでも私は吊り尾根は楽という認識から、ここさえ越えれば、と思っていた。しかし、今回の最難関はここからだった。ここからの写真は撮る余裕がなかったため無い。行けども行けども難所が続いた。霧で十メートル先は見えなかった。ルートを示す白い丸印が頼りだった。その丸印は容赦なく私の前に襲い掛かって来た。真っ直ぐがルートのように見えるのにそちらにはバツ印があり、岩の上の高い所に丸印があり、ここを登れと言わんばかりに、クサリが岩の斜面に垂れている。私は素手でクサリを握った。濡れたクサリのサビが手に付く。手袋は持っていたが、それは軍手で、このように霧雨の中では濡れてかえって危険だと思ったのだ。慣れないことはしないほうがいい、そうも思った。私はクサリ一本にすべてを託して、岩を登った。周りには誰もいない。私は家に居る両親を思った、職場の人々を思った。なぜか、人々の顔は思い浮かばなかった。ただ、人里には人がいる。その存在があることだけが、心の支えだった。私には帰る場所がある。死んでたまるか、生きて帰るぞ、死なずに帰るぞ。それだけを思っていた。難所は続いた。いつもの十五分ルールはなく、疲れていてザックを下ろせる場所があったら小休止するようになっていた。しかし、自分に対する甘えはなかった。甘えて小休止を頻繁に行えば、進むのが遅くなる。岳沢で汲んだ水は重要な癒やしとなっていた。小休止のたびに私は水をひと口飲んだ。もう、私の頭には奥穂高しかなかった。小休止は奥穂高のためだった。水を飲むのも奥穂高のためだった。私の口で行っていた呼吸音は「スー、ヒュー、スー、ヒュー」だった。「ヒュー」で吐き出す音が際立っていた。霧雨も強くなり風も下から舞い上がってくる。前に進むのが苦しかった。後ろへは帰れない。前に進むしかない。私はふと、統合失調症のことを考えた。もし、私が統合失調症者による登山の会みたいなのを作ってこの山を登ったらどうだろうか?中にはこのような難所に来て、「もう嫌だ、これ以上進みたくない」と言い出す人がいるかもしれない。じゃあ、戻るのか、と訊けば、「それも嫌だ」と言うかもしれない。じゃあ、ここに置いて行くぞ、と言えば、「それも嫌だ」と駄々をこねるかもしれない。もしそういう人がいたらどうしよう。私はそう思った。私の知り合いでそう言いそうな人がいるからだが、私だってもう前に進みたくない。だが、進まねば死ぬのだ。生きるか死ぬかを決めるのは自分なのだ。私は登山を人生が豊かになるから勧めると言っているが、こんな命がけなことを勧めるのだろうか?それ以上は考えなかった。とにかく今は俺が生きて帰ることが一番だ。しかし、私は不安だった。まだ、吊り尾根の前半も過ぎてないほどだと思うのだが、奥穂高はどれほどの難所なのだろう?前穂高であれほど苦しんだのだから、相当なものに違いない。この難所続きの吊り尾根の、言わばゲームで言えばラスボスが奥穂高なのだ。どれほどの強敵なのだろう?どれほどの岩場なのだろう?だが、戦わねば死ぬのだ。とにかく小屋まで行かなければ。私は南稜の頭という所まで来た。もう吊り尾根の前半は過ぎた。私は地図を見なかった。風が強かったからだ。それに道は一本道だ進むしかない。来るべきラスボスへと私は進んだ。なんとなく道が稜線的になり簡単に思えるようになってきた。まさか、これで終わりなわけがないだろう、奥穂高は前穂高の兄貴分だ、前穂高以上の最後の難所が待ち構えているに違いない。この一見簡単な道はその嵐の前の静けさに過ぎないのだ。そういえば、風も強くなって霧もすでに雨に近い。だが、カッパを着るよりは、濡れてもいいから前に進もう。カッパはもっと本格的な雨になってからでいい。すると、目の前の左右に小高い岩があり、その間に道がある、その手前に、分岐を示す矢印の看板がある。見ると左に行くと、西穂高岳だ。西穂高への道はジャンダルムの道だ。馬の背だ。ナイフリッジだ。絶対に行ってはいけない。そして、進行方向には「白出のコル」とある。はて?白出のコル?それはどこのことだ?そう言えば、穂高岳山荘のある場所をそう呼んだような気もするが、もし違ったらどうしよう。間違えていたら私は遭難だ。しかし、左は西穂、絶対に違う。後ろは前穂、これも違う。前に進むしかない。とにかく少し進んでみよう。西穂高への分岐があるということは奥穂高も近いということだ。さあ、どれだけの強敵だ、奥穂は?私は左手の岩の上に人工物があるのを見つけた。円筒形のコンクリート製のものだ。これはもしかして、方位盤とかいうやつか?私は登って見てみた。上から見るとやはり円形の金属のプレートがある。たしかに、その周囲には、ここから見えると思われる山の絵があり、名前が書いてある。そうだ奥穂はどっちだ。進行方向でいいのか?しかし、霧雨と、プレートが錆びているのとで見えない。くそ、どっちが奥穂なんだ?私はふと後ろを振り返った。
む?
ここが、奥穂だー!
それは奥穂高山頂の祠だった。なんだ?俺は奥穂に何を期待していた?あいつはラスボスじゃなかったのか?俺の前に立ちふさがる強敵じゃなかったのか?こんなにあっさりと攻略できる相手だったのか?時間は?私は腕時計を見た。十一時二十分。予定より一時間以上早い。俺は乗り越えたんだ。今回の試練を乗り越えたんだ。景色は見えないけれど、ここは紛れもなく、俺が目指していた奥穂高岳山頂だ。北アルプスの最高峰だ。日本三位の高峰なんだ。私は方位盤を背にして風を避けるように腰を下ろして、ザックから水筒とパンを取り出して、食事を始めた。この奥穂高岳山頂の小さな祠を見ながら、私は独りで美味くもないレーズンパンをかじり、コーヒーを飲んだ。
4.山小屋までの下り
私は、奥穂高をすぐに後にした。風は強く、霧雨は冷たかったからだ。それでも私はカッパを着なかった。この程度なら、山小屋ですぐに乾かせる。そう思ったからだ。そうだ、あとは簡単な下りだ。見ろ、普通の登山道だ。ああ、俺は本当にひとつの頂点を越えたんだ。あとは小屋に入って、あったかいラーメンでも食べよう。ああ、ラーメン、人間の温もり、う?しまった!私は左足を岩に取られ、体は捻じるように左へ傾いた。やべ、このままだと捻挫する!私は尻もちをついてしまった。左手を地面に強く着いた。しかし、運が良かった。手をついたところは平らな石の上だった。もし、石の尖ったところだったら、全体重とザックの重さのかかった左手首は骨折していたに違いない。そして、捻った左足首は新しく買ったばかりの登山靴が守ってくれた。助かった。油断大敵だ。しかし、立ち上がって歩き始めてからも、私は小屋の中の午後の時間を空想していた。まず、ラーメンを食べる。それから寝るか、あるいは持って来たビーフジャーキーと裂きイカをつまみにビールを飲もう。あとは、そうだな、お土産でも買おうか。などと、意識は歩行とは違うほうに行っていた。たしかに吊り尾根のような難所ではない。しかし、油断は本当に大敵だ。私はこの下り、全部で三回尻もちをついた。五六回ふらついた。運が良かった。私は無傷だった。小屋はなかなか見えなかった。梯子があった。あ、ネットで見た最後の梯子だ。これを下れば、小屋だ。しかし、梯子を降りてもまだ下は霧で隠れて見えない。しかも、この続く梯子、滑って落ちれば死ぬぞ。私は吊り尾根の緊張感を思い出した。最後まで気を抜くな、死にたくなかったら。私は小屋の前の石を敷き詰めたテラスに降りた。霧雨は雨に変わった。私はカッパを着るより、小屋に入るほうがずっと早いので、小屋に入った。外は本格的な土砂降りになった。私は小屋に入りホッと胸をなでおろした。
5.山小屋にて
到着時刻を確認した。十二時三分。予定より二時間弱早かった。私は売店の前の休憩所でザックを下ろした。シャツも脱いでティシャツ姿になった。長袖のシャツはザックに掛けて乾かすことにした。長袖のシャツはもうひとつ持って来てあったが、できれば新しいのは使いたくなかった。それは下山してから温泉に浸かってそのときに着替えたかったからだ。小屋の受付は十二時半からだった。私はとにかくラーメンを食べようと思って、売店のカウンターで豚骨ラーメンを注文した。
これが美味かった。山の上だから美味いというより、本当に下界のラーメン屋の豚骨ラーメンより美味いと思った。これは山小屋で作っているのだから、出汁から作っているとは思えない。ということはインスタントかもしれないが、とにかくスープがクリーミーで最高だった。もしかしたら、大袈裟だが、人生で一番の豚骨ラーメンかもしれなかった。
私は豚骨ラーメンを食べ終えると、お土産物を物色した。バンダナを買った。しばらくして、受付が始まった。私は部屋のカードを貰った。二階の「乗鞍岳」という部屋の六番が私の寝床だった。六人の相部屋で、左右に三人ずつに仕切られてあった。これならコロナ対策もしっかりしていると思った。後でわかったのだが、この六人部屋は四人しか使用しなかった。真ん中ふたつは空いていた。これもコロナ対策だろう。私は、ビールを飲もうと、売店に降りた。
私はビールを買って、持って来たビーフジャーキーと裂きイカを開けて飲み始めた。いつも思うのだが、このような乾きものと呼ばれる類のものは、どれも美味くない。今回、ビーフジャーキーというものを生まれて初めて食べたが、美味くなかった。裂きイカも美味くない。困難を乗り越えたと言っても、美味くないものは美味くない。ただ、豚骨ラーメンはお世辞なく美味かった。こうやって写真を出して美味くないというのは法に触れるのかわからないから断っておくが、とくにこの商品が美味くないと言っているのではなく、乾きもの全般が美味くないと言っているのだから、この商品の開発者に文句を言っているのではない。乾きものが好きな人にはこの商品を好きな人もいるのだろうから、人それぞれだ。そんならなぜ、私がいつも好きでもない乾きものを山に持って行くかというと、かさばらないからだ。本当はポテトチップスでも持って行けたらと思うのだが、かさばるから嫌なのだ。ポテトチップスは山小屋でも売っていることもあるかもしれないが、山小屋のは高いから嫌だ。そんなら、ビールも高いじゃないかと言われそうだが、ビールは別なのだ。その辺が私の中で合理性が取れていない。まあ、そんなことはどうでもいい、私はビールを飲むと部屋に戻った。布団に入って天井を見ていた。ようやく、今日の困難をいつもの文章創作癖で考えるようになった。
今日、俺は奥穂高に登った。明日は下るだけだ。しかし、今日は生憎の天気だった。前穂高からも奥穂高からも目的の景色は見ることができなかった。では、あんなに必死になって登った山は無駄だったのか?目的を果たせなかった登山は無駄なのか?目的を果たせなかった人生は無駄なのか?そうだ、こういう所で文学癖が出る。すぐに人生に物事を置き換える。しかし、山は山登りをしない者さえも人生を語るときの喩えにする。今日の俺のあの修羅場はまさしく人生を語るにふさわしいのではないだろうか?あの、人里に人間がいるというだけで、ありがたいと感じる感覚は、サンテグジュペリが砂漠を彷徨った末に、出会った商人から水を貰ったときの感動に似ていないか?人間がいるそれだけで幸せだ。目的を果たせなかったからと言って、無駄だっとは思えない、今回の山行は。いや、まだ、明日、ザイテングラートを下らなければならない。油断はできない。まだ終わりじゃない。これも今日学んだ教訓だ。私はいつのまにか眠った。
起きたときは午後三時だった。夕食は五時からだ。まだ充分時間はある。私は一階に降りてトイレに入った。うんこをした。便器は様式の便座でボットン式だが、半分水洗で水を流すと便器に付いたうんこを流せるようになっていた。流れないうんこは別のノズルの水で流せと書いてあった。紙は便器内に捨てず、ゴミ箱に捨てるようになっていた。私はトイレから出ると再び階段を上がって自分の部屋に向かった。階段の上で四十代くらいの女性が若い男性に声を掛けていた。
「どこから来たの?」
「ジャンっす」
ジャンとはジャンダルムの略だ。つまり彼は西穂高から北アルプス最難関と言われる、馬の背を通って来たのだ。彼は足を引きずっていた。
「ジャンダルムで怪我したの?」
「いや、奥穂からの下りっす。もう、安心と思って気を抜いたら、やっちまいました」
私と同じだ。奥穂からの下り。難関を無事越えてからの下り、もしかしたら一番危険なのはそういう所かもしれない。私はもう一度寝て、起きて五時の食事を待った。五時になると食堂に入った。
6.ザイテングラートから下山
翌朝は、四時半までたっぷり寝た。どうせ日の出は見られまいと思ったからだ。予想通り雨だった。私は前日に受け取ったお弁当を売店のテーブルで食べ、湯を沸かした。もうすぐ五時という時間だったので、朝食を食堂で取る人たちと時間が重なった。私が食事をしていると、山小屋のスタッフが、紙コップにお茶を入れて出してくれた。なんてサービスがいいのだろうと、私は感動した。
食事を終えると私は出発の仕度をした。カッパを着た。五時二十五分、小屋を出た。下り始めると、眼下に涸沢ヒュッテの赤い屋根が大きく見えた。あんなに近いのか、そう思わせた。私は安心しかけたが、昨日の失敗があると、油断大敵と思い、慎重にザイテングラートを下り始めた。ザイテングラートとは支陵とかいうもので、まあ、岩場の尾根と言ったらいいだろうか、そこがこの涸沢カールでは登山しやすい道だった。
ザイテングラートは吊り尾根に比べて登山者に丁寧に造られているようだった。細かく丸印やバツ印があって登山客を安全な進路に導いてくれるようだった。それでも私は油断せず急がなかった。と、後ろから速く降りて来る足音がする。それは父と息子の親子だった。ふたりともスニーカーを履いていた。え?スニーカー?ふたりは私を追い抜いて行った。父親に抜かれるなら納得がいくが、息子の小学生にしかもスニーカーに抜かれたのは悔しかった。しかし、私は自分のペースを守った。そして、そんな親子を羨ましく思った。私は独身で子供がない。彼女いない歴が年齢と同じという悲劇的な人生を送っている。これも統合失調症という病のせいだ。いや、違うかもしれない。私は統合失調症でも豊かな人生を、と言ってアウトドアを勧めている。そんな私が、なぜ、統合失調症でも恋愛を、と言えないのだろうか?恋愛とはそもそも病的なものではないだろうか?山の上では私はいたって健康で、性欲というものを忘れていた。まるでそれは下界に忘れて来たかのようだった。もちろん、登山中、女性をたくさん見かけた。しかし、ロマンスに憧れるようなことはなかった。ロマンスは下界のものだった。私は明らかに山に来て、下界を客観的に見ていた。死んでたまるか、生きて帰るんだ、そう思った人間界は、欲望と病に満ちた歪んだものかもしれなかった。私はザイテングラートを下り終えた。
涸沢ヒュッテは見えているのに遠かった。私は先に涸沢小屋に着いた。しかし、そこは立ち寄る予定はなかったので素通りし、テント場を抜け涸沢ヒュッテに到着した。そこの屋根の下にはどこかの高校の山岳部員たちがいた。男も女もいた。私も高校時代山岳部員だった時期がある。しかし、うまく登山を楽しめなかった。むしろ、むさくるしいと内心軽蔑していた。では、なぜ、自分は山岳部に在籍していたのか?理由がわからなかった。信じたいものを否定していた。この涸沢ヒュッテにいる山岳部の男女はみんな純粋に山を楽しんでいるように見えた。もちろん若いなりにドロドロした悩みがあるかもしれないが、少なくとも、表面上は楽しんでいた。いや、おっさんの私から見たらそう見えるだけなのかもしれない。私は彼ら彼女らを見ながら、レーズンパンとコーヒーを飲んだ。すると屋根の外に出た男子生徒のひとりが上を見て言った。
「あ、すげえ、涸沢カールが見える!」
高校生たちは全員外ヘ走って出た。そして、山の上のほうを見て写真を撮っていた。おっさんの私も、そっちに行って、上を見上げた。そこにはたった今、私の降りて来た山があるだけだった。私は写真を撮らず、荷物を準備して、下山始めた。歩き出すと雨は気にならなくなった。
長い道のりを歩き、私は横尾に降りた。九時五十分だった。そこの山荘の前は多くの下山者か、これから登る人たちで賑わっていた。しかし、私はそこに止まらなかった。私は河童橋まで早く戻りたかった。一昨日泊った宿で温泉に入ろう、そう思っていた。長かった。道に起伏はほとんどなく、均された車の通れる道をひたすら歩いた。下山したらそこは上高地の一部くらいに思っていた私にとって、平らな道は長すぎた。河童橋まで行って、温泉に入って、カレーを食べて、そして帰ろう。そう思っていたが、なかなか河童橋には着かなかった。明神に十一時半に着いた。つまり横尾から、一時間四十分均された道を歩いて来たのだ。私は河童橋まで待たず、腹が減ったので仕方なく、明神館でカレーを食べることにした。店内で、私は下山の報告を親にしようと、スマートフォンを取り出した。そこで気づいたのだが、電源がオフになっていなかった。バッテリーは五十パーセントだった。私は母にラインで無事下山したことを告げた。母からは今朝ラインが入っていたようだ。こちらの天気を心配していたようだ。介護の職場のグループラインでは、コロナ陽性者の対応について忙しく連絡を取り合っている様子がうかがわれた。私が山にいる間、下界には色々あったようだ。社会でいろんな問題がある中、私は山の上でいったい何をしていたのだろう?生きるとか死ぬとか、頑張っていて、それにいったいなんの意味があったのだろう?そう考えてハッとすることは、山の上にいたときと思考回路がまるで違うのではないかということだ。私はカレーを食べると明神をあとにした。河童橋が近づいて来るとキャンプ場がある。家族連れがワイワイとテントを張っている。私は妙に自分も父親になりたいと思うようになってきた。河童橋に着くと、観光客が写真を撮って賑わっていた。私は一昨日泊った宿に行って入浴ができるか訊いてみた。それはできないとのことで、代わりに、温泉ホテルという所では日帰り入浴をしていると聞き、行くことにした。歩いて十五分程度の所にあると宿の人は言っていたが、その十五分が長かった。途中ウェストン碑があったので写真を撮った。この記事の冒頭の写真だ。温泉ホテルに着くと、券売機で大人八百円の券を買い、風呂に入った。湯船に浸かりながら壁を見た。壁には有名な詩人たちの詩が書かれた板が掛けてある。その中に釈超空の詩がある。この人なら知ってるぞと思い読もうとするが字が読めない。山と温泉の詩だが、こんなものを山奥に来て読むというのは人間とは謎だと思った。そういえば河童橋も芥川龍之介と関係があるとかバスの車内アナウンスで行っていたような気がするが、こんな山奥まで入ってくる文学というのはこれまた謎だ。吊り尾根で感じたあの感覚は、たぶん文学を凌駕するものだったと思う。それはフランスの文学者サンテグジュペリが身をもって感じたものかもしれない。今この文章を書いていて気づいたのだが、この何行かの文章で著名人の名がぞろぞろ出て来た。これが下界だ。
私は温泉を出ると、乾いた服に着替えて、ザックを背負い折りたたみ傘を開いて、バスターミナルに向かった。出発予定は十五時十五分だった。その前の便のバスにも乗れたが、予定通り行こうと思い、ソフトクリームを食べたりしながら、人々などを眺め、時間をやり過ごした。退屈はしなかった。バスに乗ると、私はこのnoteをどう書こうか考え始めた。思考は飛び、エロいことなども考え始めた。外の景色など見ていなかった。いつのまにか、バスは新島々の駅に着いた。電車を二十分待ったが全然苦にならなかった。頭の中ではいろいろ考えていた。電車に乗り、車内にある車掌服を着たアニメの女の子キャラの絵を見て、こういうオタクみたいな趣味で電車のイメージを統一しなくてもいいのにと思ったりして、ああ、無駄なことを考えているなぁ~と客観的に考えた。松本大学前駅から学生たちがたくさん乗って来て、その中に私の好みのタイプの女の子を見つけると、妄想が止まらなくなり、山の上が遠いもののように思えた。自宅までの特急列車の長い車中、妄想がいろんな方向に飛び、思考のテンションは高いまま、私はずっと暗い車窓を見ていたような気がする。
結
私は今回の山行で、前穂高からも奥穂高からも、絶景を楽しむことはできなかった。しかし、霧の中、雨の中の登山も無駄ではないと思った。なにしろ、生きるか死ぬかの大冒険をしたのだ。無駄であるはずがない。
この記事の題名には「統合失調症」という言葉が入っている。この題名は山行前から決めていたものだ。しかし、この記事を投稿して、しばらくしてからこの「結」を書いているのだが、なんとなく、現在の私は寛解に近い状態にある気がする。生きるか死ぬかの大冒険の中で「生きる」ことにのみ意識を集中したことで、新境地が開けたような気がするのだ。もちろん、統合失調症を寛解させるために登山をしたわけではないのだが、このような山行記を書くときに統合失調症にこだわることが、あまり前向きではないと感じるようになってきた。まるで統合失調症がアイデンティティであるかのような文章のスタンスはもう、私にはふさわしくない。これからは統合失調症から離れて、健常者としてこのnoteを書いてみようと思う。私の「心のリハビリ」の肝は、「健常者」として振る舞うことだったはずだ。それは文章も同じだ。今回の山行で、吊り尾根で奮闘し、奥穂高に着いたとき、私は健康以上に健康だったと思う。あそこで必死に生きた私は、私の本然にたどり着いたのだと思う。
下界に降りてから、次々に世俗の煩悩が私に降りて来た。つまり、下界の欲望のあれこれが現実ではなく、あの霧雨の中で見た奥穂高山頂の祠のみが本当の現実なのだと感じる自分がいる。穂高連峰のあの頂きにある祠は、こうして、私が自宅で文章を書いている今も静かにそこに鎮座してあるのだ。
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