【短編小説】霧と幽霊の池
私は池を見ていた。
北八ヶ岳山中の双子池で雄池、雌池とふたつあるうちの雌池の畔である。
すでに昼食を小屋の前で済ましていた。青空が見えてきたので、私は再び雌池の方に歩いて、テント場のある森に入り、その畔の石に腰掛けたのである。
すぐそばには、初めてテント内で久美子さんを抱いた場所がある。あのときは今日のように朝から天気が不安定で、霧が出たり、それが雨になったり、また晴れたりしていた。そのため、テント泊する者は他にいなかった。だから、私は周囲を気にせずに抱くことができた。彼女はいちばんいい声で鳴いてくれた。私が抱いた夜のうち、いちばんいい声で。
私たちが出会ったのは藤枝駅前の居酒屋だった。
木田の一本の電話からだった。
「おい、聖一、今夜、居酒屋で飲まないか?」
社会人二年目の私は、その日は休日で、家でゴロゴロしていたので、断る理由はなかった。木田は中学時代からの付き合いで大学も同じだった。
夕方、居酒屋に着くと、木田の他にふたり女性がいた。はめられたと思った。私は合コンというものを避けてきた。そういうものが、性的な目的ありきの会合であって不自然でいやらしいものだと私は考えていたが、その考えを知っている木田は、あえてそれを伏せて私を呼んだのだった。私はこの歳まで彼女がなかった。
ふたりの女性は私たちと同じ歳で、そのうちひとりは羽弓さんという、活発そうな女性で、木田と付き合っているとのことだった。もうひとりの女性が久美子さんで、羽弓さんの友達だった。久美子さんも羽弓さんとふたりで飲むつもりで来たら木田と私がいたらしい。久美子さんは私と同じ登山が趣味で彼氏がいないということだった。はめられた。これは木田と羽弓さんが仕組んだ強制お見合いだった。
しかし、私は悪い気はしなかった。久美子さんが清楚で優しい、私の好みの女性だったからだ。木田がそこまで考えていたかはわからないが今では木田に感謝している。
久美子さんも合コンは不自然な出会いだから嫌いだということで、したことがなかったという。まだ男と付き合ったことがないとのことだった。私と同じだった。
しかし結局、木田と羽弓さんにまんまとはめられたカタチとなって、私と久美子さんはそれから、付き合うようになり、毎週のように低山へ登山に出かけた。私たちの登山レベルはほとんど同じで、宿泊の登山は雪のない夏山しか経験がないのも同じ、単独で登るところも同じだった。その単独が、それ以来ふたりになったのだ。
私たちは静岡県人だったので、宿泊登山は、まず南アルプスに登ろうということになった。久美子さんの案で、聖一という私の名から、聖岳に登ることになった。聖岳は大井川の奥にある標高三千十三メートルの山で、マイカー規制のあるゲートに車を置いても行ける場所にあったのでそこに決めた。聖平小屋という山小屋に泊まった。ふたりともすでにそこに泊まったことはあったが、ふたりで泊まることに意味があった。念のため断っておくが、ここで性的なことはしていない。
それ以来、毎年一座か二座、宿泊登山をした。南アルプスの百名山を踏破してしまうと、私たちの興味は北アルプスに向かった。その頃は付き合って四年になっていて、ふたりとも実家住まいだった。私は出会った当時からずっと彼女のことを「久美子さん」と呼んでいた。彼女も私のことを「聖一さん」と呼んでいた。そんな関係が強制お見合いで知り合った私たちにとっては自然で良かった。
北アルプスの皮切りは、八月の槍ヶ岳だった。私はその狭い山頂でプロポーズしようと思っていた。しかし、実際の槍の穂先には登山客が密集していてとてもそのような環境ではなかった。そこで場所を変えて、槍ヶ岳山荘の外、東側のカールに向かって作られたカウンター席に座って、ビールを飲んでいるときに言った。
「久美子さん、結婚してくれませんか?」
すると、久美子さんはカウンターに置いた私の右手を握って言った。
「子供ができたらにしない?そのほうが現実的よ」
私は意外な言葉に驚いた。
「え?でも四年付き合ってできないのだから、もし子供ができなければ一生結婚できないことになるけど・・・」
私たちは行為のときに何も着けていなかった。私がそうしたかったし、彼女もそうしたいと言ったからだった。
「もしかして、久美子さんは最初から、子供ができることを条件に結婚って思っていたの?」
「違うわ。できるときはできる。できないときはできない。自然が決めたものを守りたかったの。だって、おかしいと思わない?避妊なんて」
私は久美子さんと避妊についての意見がまったく同じだった。
「僕も同意見だ。でも、結婚はしたい」
「じゃあ、こうしましょう?ふたりでジャンダルムに登れたら結婚する」
私は噴き出した。
「ジャンダルムか、ハードルが高いな。でも、その試練は越えたいな、来年」
「急ぐのね」
「妊娠が先か、ジャンダルムが先か」
私は笑った。久美子さんも笑った。
「剱岳はどうする?大物を忘れていたけど」
「剱岳か・・・。じゃあ、そいつは来年の七月に、ジャンダルムは九月に」
「来年の九月ね。いいわ」
久美子さんの笑顔に夕陽が当たってとても美しかった。
剱岳は「岩の殿堂」であり、「一般登山者が登る山のうちでは、最も危険度の高い山」と言われている。ジャンダルムは、「そこまでの道が地図にある登山道では国内最難関」と言われている。どちらもゲームで言うとラスボスみたいな岩山である。それを来年登る。私は槍ヶ岳山荘の寝床に入って天井を見つめながら、布団の中で軽く握りこぶしを作った。
その年の九月である。自然の中、双子池のテント場で、初めてテント内で彼女を抱いたのは。
しかし、あんなことになるなんて。
翌年の七月のよく晴れた日、私と久美子さんは予定通り剱岳に登った。難所の鎖場「カニのタテバイ」を登りきり、山頂に着いたときはふたりでヒーヒー言いながら、見つめ合うと笑ってしまった。
「やった、二千九百九十九メートル登頂!」
「次はジャンダルム」
「気が早い!」
ふたりは声を出して笑った。
次の九月、私たちは標高三千百六十三メートルのジャンダルムに登るため奥穂高岳の穂高岳山荘に泊まっていた。この稜線上にある山小屋に大きな荷物を置いて、アタックザックを背負って奥穂高岳山頂に登り、そこから西南西にあるジャンダルムを往復するのだ。
翌朝は霧だったが、昼には晴れるという予報だった。私たちは八時頃、山荘を出発した。
標高三千百九十メートルの奥穂高岳山頂でしばらく霧の晴れるのを待った。
霧が晴れてくると西南西の方向にその岩の要塞は姿を現した。私たちはジャンダルムに向かって歩き始めた。いや、歩くという表現はこのルートでは適切ではない。たしかに歩く場所もあったが、手を使って降りたり登ったりする場所が主だった。そこから落ちたら死ぬ岩場をひとりずつ進んだ。常に三点支持を心懸け、自分の体を支えるのは自分の四肢のみだった。お互い声を掛け合って、馬の背と呼ばれる両側の切れ落ちたナイフのような岩場を通り、ロバの耳と呼ばれる岩を攀じ登った。そして、ジャンダルムの東側から南側を回り込んで最後の登攀をすると、私たちはついに山頂に立った。
「やった、登った」
私たちは抱き合って歓んだ。
私は彼女を見つめて言った。
「じゃあ、約束だったね」
「うん」
私はアタックザックから小箱を取り出して蓋を開いた。中には指輪がふたつ入っていた。ふたりで事前に選んだ物だった。私は小さい方を彼女の薬指に通した。そして、彼女は私の薬指に大きい方を通した。
山頂には四十代くらいの男性ふたり組と、六十歳くらいの男性がひとりいて、「ブラボー」などと言って手を叩いて祝福してくれた。
私たちはしばらく時間を忘れて山頂にいた。そして、また霧が上がってきたので、歓びに胸をときめかせながらジャンダルムをあとにした。
久美子さんが滑落して死んだあの日から今日で一年が経った。
その日を彼女と初めてテントの中でしたこの双子池で過ごそうと思い、この石に座って雌池を見つめている。
テント場で小屋主催のイベントがあるとのことで残念ながら宿泊予約が取れなかったため、日帰りとなるが、もう一時間以上ここにいると思う。
天気はまた曇ってきた。
霧が北横岳方面からサーッと降りてきた。
雌池は霧で覆われた。
私は驚き立ち上がった。彼女が、久美子さんが、白いシャツ、白いズボン、白い登山靴、白いウエストポーチ、白い帽子、白いザックを身につけ、湖面を歩いて来るのだ。
「久美子さん!」
彼女は池の真ん中で立ち止まった。私は手招きした。
「こっちへ、こっちへ来るんだ」
久美子さんは悲しそうな顔をして微笑んだ。
「聖一さん、私が近づけるのはここまでみたい」
「なぜだ?」
「私は死の門を潜ろうとしたとき、神様に言われたの。最後に、生前に出会った人の中でいちばん会いたい人のところへ、挨拶をして来なさいって・・・。」
「え?意味がわからない。なぜ、それが一年経った今で、場所がここなんだ?」
「私にもわからないわ。ああ、時間がないみたい。言わなきゃ・・・」
「え?」
「聖一さん・・・」
久美子さんは笑顔で泣いていた。
「楽しかった。ありがとう」
久美子さんはくるりと後ろへ振り向き、霧の中へ歩いて行った。
私は彼女を追いかけるために池の中にジャブジャブと入って行った。すると、背後から私を止める男の声がした。
「おい、あんた、何をしようとしてるんだ?身投げか?」
私は池の石の多い岸辺近くで膝まで水に浸かって、その年輩の男に背後から抱えられながら、池に向かって叫んだ。
「久美子さん、久美子さーん!」
男は言った。
「あんた、何を言ってるんだ?池には誰もいないぞ!」
私は男の手を振りほどこうとして振り向いて言った。
「見えないのか?あれが、久美子さんが歩いて行くのが?」
私はもう一度、久美子さんを見た。もう体が透けている。彼女は消えてしまう!
私は両手を口に添えて大声で叫んだ。
「久美子さーん、ありがとう!」
久美子さんは、歩きながら私のほうを振り返った。笑顔だった。もう泣いていなかった。
そして、霧の中へ消えてしまった。
私は涙と鼻水を拭きながら叫んだ。
「ありがとう!ありがとう!」
もう霧に包まれた池は沈黙していた。
しばらく経つと、次第に霧が晴れてきた。私は池の浅瀬に小屋の年輩の男とふたりで立っている自分に気づいた。
私は水から上がり雌池を離れ、小屋の前まで歩くと、そこに置いてあった自分のザックからティッシュを取り出し、鼻をかむと、ザックを背負い上げた。
小屋の男は言った。
「あんた、下山したら精神科を受診した方がいいと思うよ」
私は歩き始めた。
「いや、僕は病んじゃいないさ」
霧は晴れた。
私は雨池の方に向かって歩いていた。
もうその日、雨が降ることはなかった。
(了)
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