北野武監督の映画『首』を観てきた
本日、北野武監督の映画『首』を観てきた。
ネタバレはしない。
感想としては、「まあまあ面白かった」程度だが、最近私自身がアドリブで書いているウェブ小説が少し行き詰まっていたので刺激になるかと思って観に行ったら、刺激になった。つまり目的は達せられた。
私には映画を映画館で鑑賞するとき、良い映画か、たいしたことない映画かを判断する基準として、映画の途中で腕時計を見るかどうかがある。今回の『首』では腕時計を見ようともしなかった。つまり良い映画なのだと思う。良いというか、常に観客を飽きさせないようにできた映画だった。
さて、内容だが、戦国時代、本能寺の変辺りを舞台にしているが、私は高校時代に日本史の勉強を怠ったので史実を知らない。織田信長と羽柴秀吉、明智光秀、徳川家康、くらいが知っている人物で、荒木村重とか知らない。無知なのだ。やはり映画を観るには予備知識が必要な場合がある。今回はそれが映画の評価が「まあまあ」だった理由になると思う。私が悪いのだ。
『首』という題名から想像できるとおり、北野武ならばコンピューターを使って、首が飛ぶシーンがグロテスクに描かれるのだろうな、と思っていたらやっぱりそうだった。しかし、私はコンピューターが映画に取り入れられていなかった時代の北野作品で例えば『ソナチネ』の画面の外で頭を撃たれた子分の血が画面内の砂の上にジョボジョボと落ちる場面とか、『キッズリターン』で主人公がヤクザに日本刀で斬られるシーンで画面が主人公視点で、兄貴分が日本刀を画面に向かって斬りつけるという演出などのほうが、コンピューターで首が飛ぶシーンよりは残酷で怖かったと思う。つまり、映画監督たちがコンピューターで映画を編集するようになった頃から、首が飛ぶシーンは簡単に作られ、例えば『キル・ビル』では首が飛ぶシーンはもちろん、頭蓋骨が斬られ脳みそが露出するシーンとか斬新だったが、今ではそんなの当たり前で面白くない。北野監督は暴力の演出が上手いはずなのに、今回はコンピューターに頼りすぎたかな、と私は思う。表現の技術が少ない方が、効果的な表現を模索するらしい。そういえばスピルバーグ監督の出世作『ジョーズ』もサメの視点で撮ったのが効果的だったとは有名な話だ。
『首』は暴力と、もうひとつ、「男色」という要素がある。主従関係が男色で繋がっているという設定だが、史実はどうか知らないが、たしかに森蘭丸などは男色の証拠だと思うし、そういうことはあったと思う。しかし、この映画では男色ばかりが注目され、女がほとんど出て来なかった。まあ、戦国時代は男の時代であるし、現代の時代劇のように女が表に出るのは少なかったのも事実かもしれない。それでもやっぱり女はいたはずで、北野監督はどういう意識で女の出ない映画にしたのかそこのところを聞いてみたい気がするが、私は質問できる立場にいないので残念だ。そういえば北野監督の男と女のラブシーンを撮った物を私は観たことはない。私は彼のすべての作品を観ているわけではないから、なんとも言えないが、北野監督はなんとなくそこの辺りが禁欲的で、ギャグでは下ネタを連発する芸人であるのに、映画では撮らないというのは彼の倫理観であるような気がする。プライベートでは愛人を作ったりしていた人なのに、映画では女優にエロティックな演技をさせないところが、彼の美学だろう。
北野武は、分かり易い人で、人格が一枚岩というか、嘘をつかないところがいい。悪く言えば、人間の論理的洞察力が足りないと言えるが、よく言えば、感覚が独自のものを持っていてそこからブレないとも言える。このままブレずに映画を撮り続けて欲しい。